本門寺
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本門寺(ほんもんじ)は、東京都大田区池上1丁目1番1号にある、日蓮宗の大本山。山号は長栄山。池上本門寺ともいう。
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[編集] 起源と歴史
本門寺は、日蓮が生涯最後の20数日間を過ごし死去した、武蔵国千束郷(東京都大田区池上)の地に建てられた寺院である。弘安5年(1282年)9月8日、当時61歳で病をかかえていた日蓮は、本拠地の身延山をあとにした。常陸(茨城県)の湯治場へ病気療養へ向かう予定だったという。9月18日、日蓮は武蔵国千束郷にあった鎌倉幕府の御家人・池上宗仲の屋敷に到着し、10月13日、ここで没した。日蓮が荼毘に付された後、池上宗仲が土地を寄進し、日蓮の弟子の日朗が伽藍を建立したのが本門寺であるとされている。なお、池上宗仲の屋敷跡は本門寺西側の谷下にあり、本行寺という寺になっている。本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも徳川家や諸侯の祈願寺となり栄えた。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失した。
[編集] 伽藍及び境内の文化財
本門寺の主要堂宇は急斜面に囲まれた台地上に位置し、正面入口にあたる総門から寺の中心部へは96段の急な石段を上る。この石段は加藤清正が寄進整備したものと伝え、此経難持坂(しきょうなんじざか)の名がある。「此経難持」とは法華経見宝塔品(けんほうとうぼん)の偈文(げもん、経典中の詩句で書かれた部分)の冒頭の句であり、この偈文が96文字から成ることから、石段の段数を96段にしたものという。石段を上り、仁王門をくぐると、本堂にあたる大堂を中心とした伽藍が広がる。仁王門手前には長栄堂と日蓮像、仁王門をくぐって左手(西側)には日朝堂、鐘楼、霊宝殿、経蔵があり、境内東側の墓地内には五重塔が建つ。さらに、境内北側、公道を横切った先の一画には本殿、客殿、朗峰会館、松涛園などがある。
- 総門
- 元禄年間(17世紀末~18世紀初め)の建立と伝える。扁額は本阿弥光悦の筆による。
- 大堂
- 鉄筋コンクリート造。屋根は入母屋造で高さ27メートルの大建築である。1964年(昭和39年)に再建。堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、向かって右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像を安置する。
- 五重塔(重要文化財)
- 空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つで、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立された。全面ベンガラ(赤色塗料)塗り、建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になる。高さ29メートルで五重塔としては中程度の規模である。
- 本殿
- 1969年(昭和44)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。戦後に建てられた近代仏堂建築として評価が高い。旧釈迦堂は旧大堂(祖師堂)に隣接して建っていたが、再建にあたっては公道を隔てた大堂後方の北側へ移された。本尊の釈迦如来像胎内には、インドのネルー首相が寄贈した釈迦の舎利骨が納められている。
- 仁王像
(参考文献)圓鍔勝三「大本山本門寺仁王像謹作をひかえて」『史誌』6号、大田区史編纂室、1976年。
- 仁王門
- 大堂正面に建つ二重門。1977年(昭和52年)に再建。
- 日蓮像
- 仁王門手前の石段の脇に立つ。1983年(昭和58年)日蓮の700回忌に建立されたアルミニウム製の像である。彫刻家の北村西望の作。ここにはもと、明治時代の政治家の星亨の銅像があったが、戦時中の金属供出により撤去された。戦後になり星の遺族らが台座を寄付して日蓮像が建立された。
- 日朝堂
- ここに祀られる日朝は身延山11世で、61歳の時に失明したが後に視力を回復したことから、眼病平癒、学業成就の利益があるとされている。
- 鐘楼
- 現在の鐘楼は1958年(昭和33)の再建。旧梵鐘は1647年(正保4年)加藤清正の娘で、徳川頼宣の室となった瑤林院が寄進したもので、旧鐘楼が空襲で焼失した際破損したため、現在は再建された鐘楼の脇に保存されている。
- 経蔵(大田区指定文化財)
- 五重塔とともに、第二次世界大戦の空襲に焼け残った建物の1つ。1784年(天明4年)に建立。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地に移された。
- 宝塔(東京都指定有形文化財)
- 本殿から公道を隔てた西側、急な石段の途中の谷底に建つ。1828年(文政11年)日蓮の550回を期して成瀬侯により建立されたもの。宝塔とは、円筒形の塔身の上に宝形造(ピラミッド形)の屋根を載せた建築形式で、石造などの小規模なものが多く、屋外に建つ木造宝塔で大規模なものは珍しい。宝塔背後には紀州徳川家内室の墓所がある。
- 池上氏館跡土塁
- 紀州徳川家内室の墓所西側に南北方向に走る土手があり、池上氏館居館部分の土塁と考えられている。徳川家墓所に面した土塁東側斜面の一部には、墓所造営に伴うと見られる石垣で覆われている。大田区教育委員会によると、宝塔及び徳川氏墓所、大坊本行寺を含む台地西側の谷一帯は、池上氏館の根小屋(居館部分)であり、土塁は根小屋に付随する遺構と考えられている。
- 松涛園(東京都指定旧跡)
- 本殿の裏側に位置する。造園家の小堀遠州の作。明治元年(1868)4月、西郷隆盛と勝海舟が江戸城明け渡しの会見をした場所。1991年(平成3年)に改修。
- 根庵、鈍庵
- 陶芸家、大野鈍阿の旧宅を移築保存。
- 妙祐山理境院
- 総門を入ってすぐ左手にある。本門寺三世日輪の住坊として元享年間(1321~1324年)に開創。大坊本行寺、照栄院と共に池上三院家に列せられ、朱塗りの山門を許された古刹。幕末、官軍の薩摩藩勢が江戸進撃の途上に本門寺に駐屯した際、理境院は西郷隆盛の宿営に当てられたという。
- 照栄院
- もとは日蓮宗僧侶の教育の場として、1689年(元禄2)に開創された南谷壇林(なんこくだんりん)が置かれていた。壇林は1869年(明治2))に廃されたが、当時の遺構として1836年(天保7)再建の「板頭寮」(ばんとうりょう)の建物が、同寺の庫裡として境内に現存する。同寺背後の石段(妙見坂)を上がると、かつての南谷壇林の守護鎮守として、加藤清正息女瑶林院が奉納した「妙法菩薩立像」を祀る妙見堂がある。また妙見堂脇には、第二次大戦後シンガポールのチャンギー捕虜収容所で、照栄院住職が教誨師を務めていた関係で、いわゆるB・C級戦犯として同地で処刑された、旧日本軍兵士・軍属を慰霊する「チャンギー殉難者慰霊塔」が祀られている。
[編集] 文化財
[編集] 重要文化財(国指定)
- 五重塔
- 木造日蓮聖人坐像
- 兄弟抄 日蓮筆
[編集] その他
- 宝塔(東京都指定有形文化財)
- 日蓮筆消息文(東京都指定有形文化財)日蓮
- 日蓮筆大曼荼羅(東京都指定有形文化財)日蓮
- 日蓮遺物配分帳(東京都指定有形文化財)
- 身延山守番帳(東京都指定有形文化財)
- 日朗筆大曼荼羅(東京都指定有形文化財)日朗
- 経蔵(大田区指定文化財)
- 日朗聖人坐像(大田区指定文化財)
- 日輪聖人坐像(大田区指定文化財)
- 天海版一切経(大田区指定文化財)天海
- 木造柄香炉(大田区指定文化財)
[編集] その他
- 毎年10月11日~13日に、お会式が行われ賑わう。(約30万人が参詣に訪れる)
- 著名人の墓が多く、幸田露伴・力道山の墓もある。
- 節分 力道山の墓がある関係でプロレスラーの参加が多い。
- 本行寺釈迦堂 1723年(享保8年)池上本門寺より日蓮の御歯骨が分与され奉安されている。
- 毎月1回行われるフライデーガーデンコンサートや、2002年からは「イキイキ推進委員会」[1]により、桜広場を使用した野外ステージでのコンサートなども行われる。
- 大田区立本門寺公園
- 本門寺主要伽藍がある台地の東側の谷を利用した公園。遊具を設置した広場とグラウンド、弁天池、台地斜面に設置された遊歩道などからなる。1938年(昭和13)12月に「東京市本門寺公園」として開園。戦後大田区に移管された。