日代
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日代(にちだい、1294年(永仁2年) - 1394年(応永1年))は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。駿河国河合の出身。伊予公、蔵人阿闍梨と称する。日興の弟子、新六の筆頭。駿河国西山本門寺の開山。
日興の外甥にあたる。兄は日善、甥に日助がいる。新六の筆頭である日代は、1333年(元弘3年)日興の滅後、重須談所〔北山本門寺〕の2代となったが、1334年(建武1年)、本六の一人、上蓮房日仙と方便品の読不読について〔仙代問答〕を行った。日仙は不読を主張し日代は読誦を主張して問答には一応勝利したものの、大衆に支持されず、重須を退出し大石寺藤木坊に仮寓した。後に西山に移り法華堂〔西山本門寺〕を建立した。
[編集] 略歴
- 1294年(永仁2年)、日代生まれる。
- 1332年(元弘2年)、日興新六人を定む。筆頭は伊予公日代。
- 1333年(元弘3年)2月7日、二祖日興、重須に入滅〔88歳〕。伊予公日代、重須に石経を埋む。
- 1334年(建武1年)1月7日、上蓮房日仙、伊予公日代、上蓮〔百貫〕坊において問答す。
- 1340年(興国1年)8月、伊予公日代・大輔阿日善・大進阿日助等と奏聞。
- 1343年(興国4年)、伊予公日代、西山に法華堂〔西山本門寺〕を創す。
- 1344年(興国5年)7月17日、三浦阿日印、太夫阿日尊の造佛につき西山日代に問う。8月13日、西山日代、三浦阿日印に答う。
- 1356年(正平11年)5月7日、西山日代、由比初犬麿〔日任〕を付弟と定む。
- 1360年(正平15年)6月30日、西山日代、法華宗要集〔法華本門宗要抄〕を偽書と断ず。12月13日、西山日代、大聖人の真筆本尊を由比阿日任に相伝す。
- 1366年(正平21年)4月、西山日代、佐渡国小関法華縁起を記す。
- 1394年(応永1年)4月18日、西山本門寺開基伊予阿日代寂〔101歳〕。
[編集] 仙代問答
仙代問答(せんだいもんどう)とは、、1334年(建武1年)、本六の一人、上蓮房日仙と蔵人阿日代の間で行われた問答。方便品の読不読について問答を行った。日仙は不読を主張し日代は読誦を主張して、なかなか決着がつかなかった。そこで重須の地頭が、大石寺の第3世日道に裁定を仰ぐことを提案。日道も読誦を支持したため、日代が勝利した。
日蓮は本門と迹門に勝劣を付け、迹門を捨てて本門を採ることを教えた。日仙は、その教えに従って迹門である方便品は読むべきではないと主張、方便品など見たくもないと発言したという。しかし、当時は一般的に法華宗の信徒の間では方便品が読まれており、日代は迹門である方便品も有用であり、捨て去るべきではないと主張した。ただし、日代は方便品の有用性を強調するあまり、方便品だけでも良いと主張するに至り、重須大衆の不支持を受け、問答には勝利したものの、重須の住職を追われるにいたったとされる。その他、当時の重須本門寺は、たびたび火災で失われたため、その責任を問われ住職を追われたとする説もある。