恭親王
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恭親王(きょうしんのう)は、清の皇族。
[編集] 初代
初代奕訢(えききん、1833年 - 1898年)は、道光帝の第6子。母は孝静成皇后。諡は忠。
幼い頃から聡明で、刀槍、詩歌と文武に優れ、道光帝の生前、後継者の有力候補とみられていた。しかし、道光帝は第4子の奕詝の方が優しさがあるとして後継者に定めたため、1850年に奕詝が咸豊帝として即位し、奕訢は恭親王に封ぜられた。咸豊帝の治世には軍機大臣、都統、内大臣などを歴任するが、帝に避けられることもあった。アロー戦争中の1860年、イギリス軍が北京に迫ると、北京条約の調印、ついで総理各国事務衙門の設立に携わった。屈辱的な不平等条約の締結当事者となったため、排外主義者からは「鬼子六」(洋鬼子すなわち西洋のばけものとつるむ六男坊)というひどいあだ名をつけられた。
1861年の咸豊帝の死後、西太后・東太后と結んでクーデターを起こし、怡親王載垣、鄭親王端華、粛順らを除去し、宮廷内の権力を握った(辛酉政変(祺祥政変))。彼は、議政王として軍機処の大臣を兼ね、李鴻章・曽国藩などの漢族官僚を起用して同治中興を実現したが、1865年に西太后と対立し、失脚した。1884年、清仏戦争が起こると一時的に軍機大臣に起用されたが、すぐに西太后によって罷免された。1894年、日清戦争が起こると総理各国事務衙門と総理海軍を命ぜられて外交と軍務を統括し、さらに軍機大臣に復職して国難にあたったが、1898年に病死した。
[編集] 2代
2代溥偉(ふい)(1880-1936)は、奕訢の次子載瀅(さいえい)の子。奕訢が死んだとき、嫡子の載澂(さいちょう)は父に先立って没していたため、孫の溥偉が1898年に恭親王の爵位を継いだ。溥偉は近支宗室の「溥」の世代であり光緒帝の後継者候補の一人と目されたために、1908年に溥儀が宣統帝に即位し、醇親王載灃が監国摂政王となり政権を担当した醇親王体制下では冷遇され、官職は禁煙大臣を務めたのみであった。辛亥革命が勃発し、袁世凱が宣統帝退位を迫ると、御前会議において粛親王善耆とともに退位反対を主張した。退位が避けられなく情勢になると、溥偉はドイツの援助を求め青島に、粛親王善耆は日本の援助を求め旅順に渡り復辟運動を行った。1922年に青島が日本の占領から中国に返還されると、大連に移住し星ヶ浦に屋敷を建てた。1931年に満州事変が勃発すると日本の大陸浪人らに担ぎ上げられ四民維持会の会長に推され、奉天で祖先の陵墓で祭祀を行い清朝復辟運動を行ったが、関東軍は溥儀を担ぎ上げる方針に決定したため、溥偉らの運動は中止させられた。満州国においては役職に就かなかったが、溥儀の命で清朝の祖先の陵墓の祭祀などを行うことがあった。1936年11月溥儀に謁見するために訪れていた長春で死去した。謚は贒。
清滅亡後の1923年に亡命先の大連で生まれた溥偉の第七子、毓嶦(いくせん)は、皇族の子弟を自己の側近として養成したいという溥儀の方針により満州国の宮廷で教育された。1936年に父溥偉が死去すると恭親王を継承したが、すでに清朝は滅亡しており、満州国では清朝の皇族を満州国の皇族として扱っていないため形のみの爵位継承であった。満州国解体後は溥儀とともにソ連に抑留され、後に中国に引渡され撫順戦犯管理所に収容されたが、不起訴となり釈放される。溥儀の自伝『わが半生』には号の君固から「小固」という仮名で登場する。現在北京に在住し、現代中国を代表する書家として活躍している。