正子内親王
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正子内親王(まさこないしんのう、大同4年(810年) - 元慶3年3月23日(879年4月18日))は、第52代嵯峨天皇の皇女。母は皇后橘嘉智子。淳和天皇皇后。同母兄弟に仁明天皇(同年の生まれのため、双子の兄弟であったと考えられる)。
弘仁14年(823年)頃、叔父淳和天皇に入内。天長4年(827年)皇后に冊立。同10年(833年)に淳和天皇が退位、皇太后となる。同時に長男恒貞親王が仁明天皇皇太子に立坊。承和7年(840年)、淳和上皇の崩御に伴い落飾。同9年(842年)、恒貞親王が承和の変で廃太子、正子内親王も出家。仁寿4年(854年)太皇太后。貞観2年(860年)天台座主円仁より受戒、法名は良祚(りょうそ)。元慶3年(879年)崩御、享年70。
容貌美しくしとやかな優しい女性で、母の徳もよく備えていたという。恒貞親王始め三人の皇子を産んだが、恒貞親王は後に承和の変で皇太子を廃され、この陰謀の影にいた母・嘉智子太皇太后を、正子内親王は激しく怒り泣いて恨んだと『日本三代実録』に伝えられる。その後は父・嵯峨上皇の旧宮嵯峨院を大覚寺に改めて済治院(僧尼のための医療施設)を置き、また淳和院を道場にするなど、仏教に篤く帰依して救民に力を尽くした。
陵墓は円山陵墓参考地(京都府京都市右京区嵯峨大覚寺門前登り町)。
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カテゴリ: 平安・鎌倉時代の皇族 | 810年生 | 879年没