応誉
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応誉(おうよ。円蓮社応誉上人雲冏和尚)は、筑後国瀬高の来迎寺の浄土宗の僧侶。柳川の良清寺(浄土宗)の開祖。
蒲池氏第十六代蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の三男の蒲池統安の子。
大友氏と島津氏が戦った耳川の戦いに、蒲池鑑盛は、嫡子の蒲池鎮漣、三男の蒲池統安と共に家臣三千名を従えて大友方の武将として出陣。
大友氏の総敗北の中で、蒲池鑑盛、統安親子は、島津氏本営に突入すべく奮闘するが討死。応誉は、この時、祖父と父を弔うため僧籍に入る。
伯父で柳川城主だった蒲池鎮漣が龍造寺隆信に謀殺され、柳川の戦いで蒲池氏が滅び、応誉は、瀬高上荘の来迎寺の第4世住職となる。
柳川藩祖の立花宗茂が正室の誾千代の菩提寺を建てる時、応誉が呼ばれ、良清寺を開く。その後、応誉の子孫は、良清寺を預かり、子孫は代々住職を出すと共に、蒲池の名跡を再興し、立花氏の家老格の家となる。
幕末に、徳川幕府最後の西国郡代となった旗本の窪田治部右衛門(蒲池鎮克)は、蒲池鎮漣の娘の蒲池徳子の子孫で、蒲池氏菩提寺である蒲池村の崇久寺で柳川藩の蒲池鎮之丞と面談した記録があるが、この蒲池鎮之丞は、良清寺の蒲池家の者で応誉の子孫になる。
ちなみに塩塚に分家した蒲池鎮之丞の次男が松田聖子(蒲池法子)の曽祖父である。