蒲池徳子
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蒲池 徳子(かまち のりこ、永禄9年(1566年) - 寛永9年(1632年))は、蒲池鎮漣の娘。徳姫。母は、肥後国の菊池氏一族の赤星統家の娘。
龍造寺隆信により父の蒲池鎮漣が謀殺され、それに続く柳川の戦いでの柳川城の落城の時、乳母たちに守られ、からくも長崎の有馬晴信のもとに落ち延びる。
その後、豊後国に移り、大友氏重臣の朽網宗暦の子の朽網鑑房の妻となり、朽網宗壽をもうける。
朽網宗暦は大友氏重臣だったが、北上する島津氏に組したため討たれ、宗壽は若くして浪人となり、筑後に移り、母徳子の生家の蒲池氏の菩提寺である崇久寺の食客となる。宗壽の子の鎮明は蒲池の名跡を継ぎ、徳子流蒲池氏の祖となり、その子孫に、幕府最後の西国郡代となった旗本の窪田治部右衛門(蒲池鎮克)や『蒲池物語』を著した蒲池豊庵がいる。
現在、柳川市西蒲池にある崇久寺には「見性院心空妙安大姉蒲池徳女」と刻まれた自然石の徳子の碑がある。