御囲堤
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御囲堤(おかこいつつみ)とは、尾張藩が尾張国(現愛知県)に築いた木曽川左岸の堤防である。
[編集] 歴史
関ヶ原の戦い後、尾張国清洲城に徳川家康の九男、徳川義直(尾張藩初代藩主)が入城する。関ヶ原の戦い後も豊臣秀頼は健在であり、徳川幕府にとっては豊臣家及びその家臣の存在は大きな問題であった。
この豊臣家の侵攻から尾張藩を守るという軍事的目的で、伊奈備前守忠次の指揮で1608年(慶長13年)、御囲堤の築堤が始まり、翌年完成する。
一説では、御囲堤の目的は軍事的目的とは別に、木曽川の水流や水量を安定させ、川を使って木曽檜等の木材を運ぶという目的があったという。尾張藩は美濃国で木曽川沿いの重要な拠点を直轄領にしている事から、木曽川の水運を重要視していたが推測される。
大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと御囲堤の軍事的意味は薄らぎ、尾張藩を木曽川の洪水から守るという目的に変化する。
尾張国の御囲堤に対し、美濃国は3尺(約1m)低い堤防しか築いてはならないという不文律により、美濃国は江戸時代を通じて洪水に悩まされ続けた。その為、各村は村又は周辺の村と共同で土地を堤防で囲み、洪水に備えた。これが輪中の原型となった。
尾張国は御囲堤で木曽川の洪水の脅威はほぼ無くなった。しかし、木曽川から分流する河川は全て御囲堤により締め切られ、この河川を農業用水としていた村々は水不足に悩まされる事となった。そこで尾張藩は農業用水の建設に着手し、大江用水(宮田用水)、木津用水、般若用水、新木津用水、新般若用水等が造られ、入鹿池などのため池を整備した。
[編集] 御囲堤の規模・構造
現在の愛知県犬山市から弥富市までの木曽川左岸に、約48kmにわたって築かれている。御囲堤の高さは9.1m~14.5mある。堤の川側に外法(そとのり)という法面 があり、堤防の上には馬路(ばぶみ)という幅10.9m~18.2mの平らな部分がある、陸地側には犬走り(いぬばしり)という幅5.4mの段差がある。その法面を内法(うちのり)という。
御囲堤には桜が植樹された箇所が多い。幕府が、人々が桜を観賞することにより堤防が踏み固められると考えて植樹したと言われている。
[編集] 現在
御囲堤の大部分は残っている。現在も現役の堤防である箇所が多い。又、桜並木の一部は残されており、特に一宮市の138タワーパーク周辺は花見の名所である。