広島医科大学
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広島医科大学(ひろしまいかだいがく)は、広島県により1952年2月に設立され1956年3月に閉学となった公立医科大学。
ここでは前身校である広島県立医学専門学校・旧制広島県立医科大学についての記述を含む。
目次 |
[編集] 概要
- 第二次世界大戦中に設立された広島県立医学専門学校を前身としている。
- 戦後、他の公立11医専(兵庫・名古屋・岐阜・三重・鹿児島・奈良・横浜・和歌山・大阪・福島・山口。いずれも戦時期に設立)とともに旧制医科大学に昇格し広島県立医科大学となり、さらに新制大学への移行により広島医科大学に改組された(これらの事情から後身機関である広島大学医学部は新八医科大学の一つに数えられている)。
- 最終的には広島大学に併合され同大学医学部・同附属病院の構成母体となった。
[編集] 沿革
[編集] 源流諸校
- 1870年:広島藩藩校の修道館内に医学所を設置。
- 1871年:修道館の廃止により医学所閉鎖。医学所教師らは躋寿館を設立。
- 1874年6月:躋寿館を私設医学校とする。
- 1877年5月:広島県に移管され県立広島医学校となる。同時に医学校内に公立広島病院(県立広島病院の前身)を設置。
- 1878年3月:広島県立附属医学校と改称、甲種医学校となる。
- 1887年:文部省の地方医学校統合方針により廃校。
[編集] 広島県立医専時代
- 1945年2月:広島県立医学専門学校の設立。県立病院を附属病院とする。
- 初代校長の林道倫ほか教授陣は岡山医科大学に依存した。
- 1945年3月:開校。学則を制定し、広島県報第8号に告示。
- 1945年4月:広島県立広島病院を本校附属医院とした。
- 1945年8月:原爆被災。
- 1947年2月:呉市立市民病院および呉市立呉病院が県に移管され、前者を附属医院本院、後者を阿賀分院とする。
[編集] 旧制広島県立医大時代
- 1947年6月:県立医科大学の設立許可および予科開設が認可された。
- 1947年12月:附属病院音戸分院設置。
- 1948年3月:県立医科大学の開設を認可された。附属病院二河分院設置。
- 1948年4月:広島県立医科大学(旧制)開学。
- 1949年4月:附属厚生女学院を設置。
- 1950年12月:二河分院閉鎖。
- 1951年3月:広島県立医科大学予科閉鎖。
- 1952年2月:附属医院を附属病院に改称。新制の医科大学の設置が認可された。
- 1952年3月:広島県立医学専門学校閉校。
[編集] 広島医大時代
- 1952年4月:広島県立医科大学を改組し広島医科大学(新制)が開学。
- 1953年8月:広島大学医学部設置。広島医科大学は年次移管により広島大学に併合されることとなる。8講座(解剖学第一・第二、生理学、生化学、薬理学、病理学第一・第二、細菌学)を移管。
- 1954年4月:6講座(衛生学、法医学、内科学第一・第二、外科学第一・第二)を移管。
- 1955年4月:医学部医学進学課程設置。3講座(神経精神医学、小児科学、産科婦人科学)を移管。
- 1956年3月:移管完了により広島医科大学廃止。
- 1956年4月:4講座(整形外科学、皮膚泌尿器科学、眼科学、耳鼻咽喉科学)を移管。附属病院(本院・阿賀分院・音戸分院)が国に移管され広島大学医学部附属病院となった。
- 1956年11月:音戸分院廃止。
- 1957年9月:阿賀分院廃止。
- 1961年4月:広島県立医科大学(旧制)廃止。
[編集] 校地
設立当初の校地は、旧師範学校校地であった広島市皆実町1丁目(現南区)に置かれ、その附属病院(のち附属医院)となった元県立病院(現在の県立広島病院)の所在地は広島市水主町(現中区加古町)であった。1945年8月、空襲激化に伴い高田郡小田村の高林坊寺院(現安芸高田市)に疎開したが、翌日の原爆被災によって広島市の本校舎・附属医院はともに全部焼失した。このため同年12月、学校および附属医院を広島県賀茂郡安浦町旧安浦海兵団跡に移転し、授業を継続した。その後呉市からの医専誘致の申し出を受けて1947年2月、呉市立市民病院(呉市公園通)・呉市立呉病院(同市阿賀町原)が本校附属医院として県に移管(県営化)されたことに伴い、本校を呉市二河町(元海軍徴用工員宿舎)に移転した。同年11月には失火により基礎教室など校舎のほとんどを全焼、翌12月には本校舎を附属病院阿賀分院内に移転するとともに同音戸分院(呉市警固屋町)に設置。1948年2月には元海軍共済病院阿賀分院(呉市阿賀町小倉新開)の移管を受け、本部事務部及び基礎医学教室を移転した。翌3月には附属医院本院を呉市広町広共済病院跡に移転し、呉市公園通本院跡を二河分院とした。1953年には広大への移管が決定されたがその際の条件として広島市への校地移転が提示され、十分な同意を取りつけていなかった呉市との間に混乱が起こった。このため、1956年広大医学部は呉市に対し同市広町に附属病院を残すことを条件に移転の承認を得た。その間、広島医科大学は霞町(南区)の広島県庁跡地(戦前の兵器支廠)に設置された広島大学医学部キャンパスに1957年までに移転(1957年2月に医学部事務部及び基礎医学教室の移転完了→同年9月に臨床医学教室及び医学部附属病院を移転)、最後まで残っていた呉分院も1962年に廃止されたため呉市内の旧校地はすべて廃止となった。1990年5月には呉市広警察署構内に「医学部発祥の地碑」が建立されている(見学は要許可)。
[編集] 関連項目
- 広島大学
- 医学部 - 新八医科大学
- 旧制専門学校
- 広島文理科大学 (旧制)・広島高等師範学校・広島女子高等師範学校・広島高等学校 (旧制)・広島高等工業学校・広島市立工業専門学校 (旧制)・広島師範学校・広島青年師範学校 - 広島大学の前身諸校
[編集] 外部リンク
- 広島大学略年表
- 広島大学医学部沿革
- 『広島大学新聞』1999年4月20日「記念碑で見る広島大学の歴史」 - 広大医学部の源流を紹介。
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