常陸国風土記
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常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。
元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
現在、風土記は、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国、出雲国の5冊のみ伝わっている。他は逸文。
常陸国は、大化改新(645年)の頃に誕生し、現在の石岡市に国府と国分寺が置かれた。その下に新治、白壁(真壁)、筑波、河内、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡が置かれた。
本書における常陸国の名の由来は、以下の2説とされている。
- 「然名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。」
- 「倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。」
又、常陸国風土記が編纂された時代に、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていた。
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