布部山の戦い
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布部山の戦い(ふべやまのたたかい)とは、1570年(元亀元年)に山中鹿介率いる尼子再興軍とそれを阻止しようとする毛利家との間に起こった戦いである。
[編集] 戦いまでの経緯
1566年永禄9年11月28日に月山富田城が開城し、尼子家が滅びた後、尼子家家臣である山中鹿介・立原久綱達が尼子家再興を目指すため、1568年、京都・東福寺に逃れていた新宮党の尼子誠久の子である尼子勝久を還俗させ、擁立した。 翌年、但馬、隠岐を経て出雲に上陸した後、尼子再興の伝令を発すると、5日後には尼子勝久の元に尼子家旧家臣、3000の軍勢が集まった。
最初に新山城を陥落させ、出雲の旧領をほぼ制圧し、破竹の勢いで月山富田城に向かったが、守兵300であるにも関わらず天野隆重が守る難攻不落の険城をなかなか落とすことができなかった。隠岐為清の反乱等も重なり手を拱いていた所へ、伊予・北九州へ出兵していた毛利家主力が戻り、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景以下、13000の大軍は石見から出雲を目指した。これを知った尼子勢は毛利勢を食い止める為、末次城に尼子勝久を残して石見路から月山富田城に行く際に通る布部山で毛利を食い止める事とした。
[編集] 布部山の戦い
尼子勢は布部山の2つしかない登り口(水谷口・中山口)に山中鹿介を大将とする総勢6800の兵を布陣し、万全の体制で毛利軍を待ち構えた。戦いは当初地の利に勝る尼子勢が優勢だったが、攻め落とすのが難しいと判断した吉川元春が住民に間道を教えてもらい、別働隊を率いて裏から布部山の頂上に登りそこから尼子軍の本陣を強襲したところ尼子勢は総崩れとなり敗走した。