嶋田繁太郎
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嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年9月24日 - 1976年6月7日)は、大正、昭和期の海軍軍人。最終階級は海軍大将。東京都出身。
[編集] 経歴
旧幕臣の長男として生まれる。 東京中学を経て、1904年、海軍兵学校32期卒業、海軍少尉候補生。同期に山本五十六、堀悌吉らがいる。1905年5月末の日本海海戦で巡洋艦和泉に乗り組み、偵察活動に従事。
1915年海軍大学校13期卒。12月13日海軍少佐に昇任。1916年から1919年までイタリア大使館付駐在武官後、主に軍令部に在籍、伏見宮博恭王軍令部総長の信任を得る。
1923年海軍大学校教官。1928年多摩艦長、比叡艦長を経て、1929年、海軍少将に昇進。第2艦隊参謀長、連合艦隊参謀長兼第1艦隊参謀長を歴任。第1次上海事変では第3艦隊参謀長で上海に出動。その後軍令部第3班長、同第1班長、軍令部令改正後は軍令部第1部長。1934年、海軍中将。1935年に軍令部次長。1937年第2艦隊司令長官、1938年呉鎮守府司令長官。
1939年4月13日勲一等瑞宝章受勲。1940年4月29日功二級金鵄勲章、勲一等旭日大綬章受勲。同年5月支那方面艦隊司令長官となり、同年11月海軍大将へ昇任。
1941年9月横須賀鎮守府司令長官。同年10月東條内閣にて海軍大臣。在任期間は1941年10月18日~1944年7月17日。就任直後の不戦論から一転、対米開戦を容認。海相として陸軍との協調関係に努めたが、戦局が悪化すると陸軍協調が批判の的となり、東條英機首相の腰ぎんちゃくの如き振る舞いを揶揄され、「(東條首相の)嶋田副官」のあだ名が付いたといわれる。
1944年2月、東條首相兼陸相の参謀総長兼任に合わせて軍令部総長を兼任するが支持されず。同年6月のマリアナ沖海戦敗北で、反東條に併せて反嶋田の動きが起こり、7月に海相辞任。8月に軍令部総長を辞任。軍事参議官を経て1945年1月に予備役。
終戦後、A級戦犯に指名され、極東国際軍事裁判で1948年11月12日終身禁固刑判決を受ける。1955年仮釈放後赦免され、1976年死去。戦後は回想録の執筆も回想談も断り続け、敗軍の将兵を語らずの姿勢を貫いた。
[編集] 評価
当時の陸軍に対して、唯一の拮抗しうる存在であった海軍は政治への不干渉・沈黙を暗黙の了解としていた。政党政治が瀕死に陥っていた当時、それが陸軍の暴走の歯止めと成らなかったばかりか、嶋田の協調的態度により遂に日米開戦は不可避となったと云われている。