嶋中鵬二
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嶋中 鵬二(しまなか ほうじ 1923年2月7日 - 1997年4月3日)は中央公論社社長。進歩的な総合雑誌『中央公論』を中心に戦後の出版界に大きな業績を残したが、晩年は経営危機を招いた。
嶋中雄作(1887年 - 1949年。1928年以降は中央公論社社長)の次男。妻雅子は政治学者蝋山政道の娘。
[編集] 来歴・人物
- 東京高等師範附属小学校(同級生に鶴見俊輔や永井道雄がいた)、東京高等師範附属中学校を経て東京帝国大学文学部独文科卒業。太平洋戦争中は、勤労動員で中島飛行機(現在の富士重工)の研究所に勤務。
- 1947年 - 1948年、第14次新思潮に関わる。吉行淳之介によれば中井英夫が編集長格で、嶋中は黒幕的存在であったという。
- 1949年1月、父雄作が死去。会社を継いだ兄嶋中晨也もまた病死したため、明治大学と東洋大学の講師を辞して、26歳で社長に就任。
- 1956年、東京都中央区京橋に自社ビルを建設。
- 1961年、東京都新宿区の自邸に大日本愛国党の元構成員(17歳)が侵入。嶋中社長はからくも難をのがれるが家政婦が刺殺され、雅子夫人が重傷を負う(嶋中事件)。当時、発売元であった『思想の科学』誌が天皇制特集号(1962年1月号)を組むと、発売停止にし無断で裁断(12月)。これに対して、言論人の間に『中央公論』への執筆拒否運動が起こった(『思想の科学』事件)。
- 1962年、大宅壮一と共に、産経新聞社長(当時)の水野成夫に助言を与え、産経新聞に『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)の連載を始めさせる。
- 1965年 - 1967年、『日本の歴史』シリーズがヒット。
- 1984年、『中央公論』に「アメリカのマスコミを牛耳るユダヤ人たち」という記事を掲載した件について、アメリカのユダヤ人団体ADLのエイブラハム・フォックスマン委員長から抗議を受ける。
- 1994年、中央公論社会長に就任。長男の行雄が社長に就任。
- 1996年、社長行雄を解任。これにより、社長は空席となる。
- 1997年4月3日、約150億円の負債を残して死去。妻雅子が会長となる(翌年社長を兼任)。
- 1999年、中央公論社は讀賣新聞傘下に入る(中央公論新社と改称)。