島津久経
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島津 久経(しまづ ひさつね、1225年(嘉禄元年) - 1284年5月7日(弘安7年4月21日))は鎌倉時代中期の武将。島津氏の第3代当主。第2代当主・島津忠時の嫡男。官位は下野守。修理亮。
初名は島津久時。1265年、父から家督を譲られて鎌倉に赴き、有力御家人の一人として昼番衆に任じられた。1275年、元寇のために九州に戻り、筑前の守備を命じられた。1281年の弘安の役では島津軍を率いて参戦し、大いに活躍して武功を挙げた。1284年、鹿児島に浄光明寺を建立する。同年4月21日、筑前の宮崎役所で死去した。享年60。墓地は鹿児島市の本立寺。または出水市野田町の感応寺。後を子の島津忠宗が継いだ。
弘安の役での活躍は、蒙古襲来絵詞に描かれている。
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