岸一郎
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岸一郎(きし いちろう、1894年10月13日 - ?)は、就任から2ヶ月で辞任した、元大阪タイガース監督。福井県敦賀市出身。
[編集] 来歴・人物
旧制早稲田中学(現・早稲田中・高等学校)、早稲田大学、満鉄と一貫してエースを務めてきた。後に台湾に渡り、満鉄の関連会社に勤務する。戦後は県立神戸高等商業学校(後の神戸商科大学、現在の兵庫県立大学)の監督を1年務めた。
1955年、試合中の不祥事の責任を取って退団した松木謙治郎監督の後任として、岸の起用が発表されると、中央球界で全く無名であったため世間を驚かせた。岸起用の経緯については諸説あるが、上田賢一著『猛虎伝説』(集英社新書、2001年)によると、野田誠三オーナーが所用で運輸省を訪れた際、雑談として次期監督を探していると話したところ、岸を紹介され、断り切れなかったということである。岸は満鉄と縁が深かったため、運輸省に人脈があったのかも知れない。ただ、球団関係者から起用すれば派閥抗争は避けられないため、野田オーナーにしてみればむしろ渡りに船だったのではないかという見方もある。
監督に就任した岸は、意欲的に戦力の新旧交替に着手していった。投手陣では衰えの見え始めていた真田重蔵・藤村隆男・梶岡忠義に代えて、若手の渡辺省三・大崎三男・西村一孔・小山正明を起用し、ローテーション制を導入した。また野手では投手から転向した田宮謙次郎を4番に据え、サードに若手の三宅秀史を抜擢した。
しかし、藤村富美男が試合中に公然と監督命令に逆らう(岸監督が出塁した藤村に代走を送ったところ、「まだ回が早いから」と代走に起用された選手をベンチに追い返した)など、ベテラン勢からの反発に遭った。対巨人戦9連敗が響き、33試合目を終えたところで、5月21日に病気療養の名目で退団。後任には藤村選手が就任した。
岸に関しては、これまで揶揄的に取り上げられることが多かったが、彼が起用した若手選手たちは、みな球界で何らかの足跡を残した選手たちばかりであり、指導者としての眼は確かだったと言えよう。プロ野球と無縁で、還暦近い年齢にも関わらず、果敢に、しかも合理的に老舗チームの改革に取り組んだ稀有の人物として、再評価する見方があって良いようにも思われる。
ちなみに、同年新人王に輝いた西村一孔がたった4年で現役引退せざるを得なかったのは、後任の藤村(富)監督がローテーションの概念を無視して酷使したためと言われている。
[編集] 監督通算成績
- 33試合 16勝17敗1分 勝率 .485
[編集] 関連項目
- ※カッコ内は監督在任期間。