岩瀬忠震
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岩瀬 忠震(いわせ ただなり、1818年12月18日(文政元年11月21日) - 1861年8月16日(文久元年7月11日))は、江戸時代後期、幕末の幕臣である。旗本設楽貞丈の3男、母は林述斎(林羅山を祖とする林家の大学頭)の娘。後に岩瀬忠正の養子となる。
1849年、いわゆる『安政の改革』に於いて老中筆頭阿部正弘にその才能を見出されて目付に任じられる。その後も外国奉行にまで出世し、来航したロシアのプチャーチンと交渉して日露和親条約締結に臨み、1858年(安政5)にはアメリカ合衆国の総領事・タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、日米修好通商条約に井上清直と共に署名するなど、開国に積極的な開明的な外交官であった。
同年、13代将軍徳川家茂の将軍後継者争いで一橋慶喜(徳川慶喜)を支持する一橋派に属し、大老となった井伊直弼が反対派や一橋派の排斥を行う安政の大獄で作事奉行に左遷され、59年には蟄居を命じられた。1861年、44歳で死去。
墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷墓地。
[編集] 江戸幕府役職履歴
※日付=旧暦
- 1853年(嘉永6)10月8日、小姓組番頭白須甲斐守政偆組学問所出役から徒頭(二番組)に異動。修理を称す。
- 1854年(嘉永7)1月22日、徒頭から目付・勝手掛・海防掛に異動。
- 1855年(安政2)1月18日、下田へ出張。 12月16日、従五位下伊賀守に叙任。
- 1857年(安政4)4月15日、長崎へ出張。 9月13日、老中に松平伊賀守忠固が就任することにより、伊賀守から肥後守に転任。
- 1858年(安政5)1月8日、老中堀田備中守正睦の上洛に伴い副役と就る(同役に勘定奉行川路左衛門少尉聖謨) 5月16日、琉球使節江戸参府に伴い、御用取扱兼帯。 7月8日、目付から外国奉行に異動。 9月5日、外国奉行から作事奉行に異動。 12月20日、宗門改を加役(兼帯)。
- 1859年(安政6)8月27日、作事奉行御役御免。
[編集] 岩瀬氏
藤原南家の末裔で、鎌倉時代に幕府官僚として活躍し、南北朝時代には、奥州の豪族となった二階堂氏の支族といわれる。岩瀬氏の祖は、15世紀に奥州から三河に移り戦国大名今川氏に仕官して、宝飯郡内(現、豊川市内)に、領地を授かる。
また、岩瀬氏安のときに、松平清康に仕えて、以後、松平・徳川のために尽くしたとも、伝えられるが、客観的ではなく(あるいは一時的なものであり)、東三河の土豪であった牧野氏、真木氏、野瀬氏などと共に、その周辺に根を張り、今川氏のため、西三河の松平氏と対峙していた勢力であった。
1564年(永禄7年)に、松平氏に降りて、三河国牛久保城主であった牧野氏の牧野組に属したが1590年(天正18年)の豊臣・徳川連合軍による小田原、北条攻めのときの殊功を認められて、家康の直参となった。本家のほか、はじめ300俵で分家した幕臣(旗本)の末家が2つある。岩瀬忠震は、分家の出身である。