岩戸山古墳
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岩戸山古墳(いわとやまこふん)は、福岡県八女市八女(やめ)古墳群にある岩戸山とよぶ前方後円墳。
[編集] 規模
全長約135m、後円部径約60m、前方部幅約90mの前方後円墳であり、九州地方最大級である。
また、古墳は東西を主軸にして、前方部が東にあるが、その北東部分に〈別区〉と呼ばれる広場状の区画がある。風土記逸文にいう、石人や石猪が配置されていた場所であると目されている。
墓からは、大量の石人、石馬が発掘され、磐井氏の繁栄ぶりを示している。
[編集] 被葬者
六世紀後半、北部九州を支配していた筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)の墓と目されている。日本の古墳のうちでも被葬者の推定できる数少ない古墳である。『日本書紀』の現存する最古の注釈書である『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)が『筑後国風土記』(ちくごのくにふどき)から引用した「筑後国風土記曰わく」で始まる文に、古墳の位置、所在、古墳の主の名、古墳の規模や特色などが簡潔に書かれている。その引用文から磐井の墓であると考えられるようになり、やがて定説となった。この引用文を『筑後国風土記』逸文という。
磐井は、『記紀』では「筑紫国造磐井」と表記され、『筑後風土記』(逸文)では「筑紫君磐井」と表記されている。反乱者にも拘わらず「国造」「君」の称号が使われている。磐井は、527年(継体21)に近江臣毛野が6万の大軍を率いて任那に向かおうとした時に、肥・豊の兵を動員して政府軍を阻んだ。そこで翌528年(継体22)物部麁鹿火(もののべのあらかい)に惨殺された。ここまでが日本書紀を頭から信じた場合の話である。しかし、磐井は「惨殺」されずに生き延びたという話が地元に残っている。そこで、過去から「反乱」以降に築かれた古墳群の調査をもっとしてみることで、新たな事実が浮かび上がってくるかもしれない。
[編集] 関連項目
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