岡城 (豊後国)
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桜咲く岡城 | |
通称 |
臥牛城 |
城郭構造 |
梯郭式山城 |
天守構造 |
不明 |
築城主 |
福原直高 |
築城年 |
1185年 |
主な改修者 |
志賀貞朝、中川秀成 |
主な城主 |
志賀氏、中川氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
石垣 |
岡城(おかじょう)は,現在の大分県竹田市大字竹田にある城址。別名・臥牛城。
[編集] 概要
古くは文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したといわれる山城である。南北朝時代の建武元年(1334年)南朝方に属した大友氏の一族である志賀貞朝が大がかりな改修を加え岡城と名付けた。以後、志賀氏の居城となる。
天正14年(1586年)、耳川の戦い(安土桃山時代)のあと島津氏が豊後府内(現在の大分市)に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退しその評価を高めた。
豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友氏が失態を犯し所領を没収されると、重臣・志賀氏も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年)摂津国から中川秀成(中川清秀の子)が移封された。この際に3年がかりで大規模な修築を施した。天守・本丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張し、二の丸・三の丸を設けた。また、加藤清正の助言により大手門を東向きから西向きに改めた。城下町もこの時、整備拡張された。以後、明治維新まで中川氏(岡藩7万石)の居城となった。
明治維新後、明治4年(1871年)から翌年にかけて城郭建造物は全て破棄された。現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。
昭和11年(1936年)12月16日、国指定史跡 岡城址に指定され、以後、周辺は整備され毎年「岡城桜まつり」が開催されている。
「荒城の月」作曲者の瀧廉太郎は、幼少期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわれている。現在城郭内には廉太郎の銅像が、遠方の山並みを眺めるように建てられている。
[編集] 関連項目
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