山名誠通
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山名 誠通(やまな のぶみち、? - 天文17年(1548年))は戦国時代の武将。因幡山名氏一族。
1528年に宗家である但馬山名氏の山名誠豊が没し、祐豊が跡を継ぐが、やがて誠通は祐豊と対立関係を深めていくようになる。
1544年頃、出雲の尼子晴久より偏諱を受け名を「久通」と改名した。これは尼子氏への従属を表すと共に、その援助を期待しての行動と思われる。
1545年には鳥取城を築城し、祐豊への備えとするなど守りを固めた。しかし1548年、祐豊軍の因幡奇襲に隙を突かれた形となった久通は、そのまま討ち死にしてしまった。これを『申の歳崩れ』という(因幡民談記)。
久通亡き後の因幡守護は、1552年に尼子晴久が幕府より任じられたが、祐豊の弟である豊定が但馬山名氏を後ろ盾として因幡へ勢力を扶植した。一方、久通の遺児・豊成は鹿野城にあって因幡の要所を押さえていたが、布勢屋形に反旗を翻した武田高信によって1563年に毒殺され、次男・弥次郎も高草郡立見峠で武田勢に討たれ、久通系の山名氏は絶家した。
[編集] 山名誠通に関する異説
- 通説によると、鳥取城は1545年に山名久通の命を受けた武田国信の家臣・田原某により築城されたことになっている。しかし、1544年に尼子晴久が鳥取山下(鳥取城)を攻めた記録があるので、鳥取城は山名久通に対する但馬山名氏の抑えとして築かれたとする説が有力になっている。
- 前記『申の歳崩れ』に相当する合戦については、当時の古文書には記録されていない。また山名誠通(久通)は確実な文書には1546年を最後に登場しない。加えて、誠通の家臣とされた武田山城守も但馬山名氏に通じていたことを裏付ける文書も発見されている。したがって、山名誠通(久通)は1546年頃に但馬の山名祐豊と鳥取城の武田山城守の攻撃によって、立見峠で討たれたとする説もある。現在も立見峠周辺に残る『山名弥次郎の怨霊伝説』は、誠通討ち死にの史実が姿を変えて伝えられたものと考えることもできる(高橋正弘『山陰戦国史の諸問題・上』より)。