鹿野城
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鹿野城(しかのじょう)は因幡国気多郡(現在の鳥取県鳥取市鹿野町)にあった平山城。
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[編集] 歴史
- 城の創建年代は不明だが、因幡の国人領主・志加奴氏(鹿野氏)が居住していたと言われる。
- 1563年(永禄6)には武田高信の攻撃を受けた因幡守護・山名豊数が守護所である布勢天神山城を捨てて鹿野城に退いている。
- 1580年(天正8年)羽柴秀吉による第1次鳥取城攻撃の際に織田方の城となり、亀井茲矩が守将となった。茲矩は関ヶ原の戦い後も加増され、鹿野城を近世城郭へと改築した。
- 亀井茲矩は朱印船貿易を行っていたため、天守以下の櫓や門に特徴的な名称を付けていたと言われる。さらに自らの居城(鹿野城)を王舎城(おうしゃじょう)、城下町を鹿野苑(ろくやおん)、城の背後にそびえる山を鷲峰山(じゅぶせん)、城下を流れる川を抜堤川(ばったいがわ)と名付けている。
- のち嫡子政矩が津和野藩へ転封し一時主を失うが、池田光政の鳥取入府に伴い、家老日置(ひき)氏が城主となるが池田光仲との国替えで主を失い、一国一城令で破却された。その後、播磨国宍粟騒動で改易され堪忍料一万石で山崎城主・池田輝澄が鹿野城下の現在光輪寺に居住したこともある(当時の庭が残っている)。
- 1868年(明治元年)になってから鳥取池田家の新田藩である東館新田藩の陣屋が設けられたと各種の歴史雑誌や城郭ガイドに記されているが、実際には藩主が来ることはなく、政庁も於かれることはなかった。廃藩置県時に鹿野県は成立しなかったことがそれを証明している。
[編集] 構造
標高148mの山頂に設けられた本丸を中心に、二の丸・三の丸と階段状に配置されている。また鳥取県内の近世城郭としてはただ一つ、西の丸の呼称を持つ郭も存在する。
- 本丸には小規模な天守台が残り、2層程度の天守が存在していたと推測されている。
- 二の丸には朝鮮櫓・オランダ櫓の呼称を持つ櫓があったと伝わっている。城の絵図等が残っていないため詳細は不明だが、こうした呼称をもつ櫓の例は全国的に見ても珍しい。
- 近年になって発掘調査が行われ、因幡池田氏の定紋である揚羽蝶紋や菊紋の軒丸瓦が出土している。また裾瓦も出土しているため、金沢城や新発田城と同じような海鼠壁の城壁だったと推測されている。
[編集] 備考
鹿野城は毛利氏の因幡経営の本拠地として戦国時代から存在しており、亀井茲矩の入部後に近世城郭としての改築が図られたと見られる。近世城郭としての鹿野城は上記の規模・構造だが、この規模では毛利氏因幡経営の本拠地としては余りにも小さい。杉原土囲という天正八年の付城跡が幸盛寺に残っており、現在の鹿野城跡がその一部であったことが想像される。さらに、現在の鹿野城跡南側の裏山に広がる遺構が毛利氏の因幡経営の本拠地としての中世山城鹿野城であると考えられている。