山名祐豊
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山名祐豊(やまな すけとよ、永正8年(1511年) - 天正8年(1580年))は戦国時代の大名。山名致豊の次男で、山名豊定の兄。別名山名宗詮。
父・致豊の弟で但馬の守護を務めていた山名誠豊の養子となり、1528年の誠豊の死去によって家督を継いだ。この頃の山名氏は但馬守護と因幡守護の両家に分裂していたため、祐豊は山名氏の統一を目指して1548年に因幡守護である山名誠通(久通)を討ち取った。そして、新たな因幡守護として弟の山名豊定を置き、領国の安定に努めたのである。
1542年、祐豊は幸運なお宝を発見する。生野で銀山が発見されたのである。しかしこの発見により、山名氏は織田信長という強大な勢力を敵に回してしまうこととなる。銀山に目をつけた信長は、1569年に羽柴秀吉に命じて山名氏の領土に攻め込ませたのである。この侵攻に遭って祐豊は領土から追われ、堺に逃亡した。
しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、領地に復帰している。その後は同じく信長と手を結んでいた尼子勝久や山中鹿介らと協力して毛利氏と戦った。しかし1575年に何を考えたのか、突如として毛利氏と和睦を結んで織田氏を裏切ってしまう。
これに怒った信長は、秀吉に再度の侵攻を命じた。そして祐豊は1580年、秀吉の軍勢が居城である出石城を包囲する中で死去したという。子孫は豊臣氏に仕えている。