山内豊明
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山内 豊明(やまうち とよあきら)は、土佐中村藩の第3代(最後)の藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛永19年(1642年) | |||
死没 | 宝永元年1月17日(1704年2月21日) | |||
別名 | 九郎太郎(幼名)。山内直久(別名) | |||
戒名 | 陽報院殿玉照窓白大姉 | |||
官位 | 従五位下、大善亮 | |||
藩 | 土佐中村藩主 | |||
氏族 | 山内氏 | |||
父母 | 父:山内忠直、母:水野忠清の娘 養父:山内豊定 |
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兄弟 | 兄:山内豊定 |
1642年、初代藩主・山内忠直の子として生まれる。1677年、第2代藩主だった兄・豊直が若死にし、その息子も幼少だったため、弟に当たる豊明が養子として後を継いだ(ただし、豊明が家督を継いだのは1684年のこととも言われている)。第5代将軍・徳川綱吉の寵愛を受けて1689年4月14日に奥詰衆となり、同年5月3日には若年寄に任じられるという異例の栄進を遂げている。ところが5月10日、豊明は病気により放心状態で目も見えず、耳も聞こえないとして若年寄辞職を綱吉に求めた。しかし、これが不敬罪として綱吉の怒りに触れて5月12日に江戸屋敷を召し上げられて謹慎を命じられる。
8月3日に謹慎は許されたが、代償として3万石の所領のうち、2万7000石を没収され、残り3000石の寄合旗本としての存続を許された。ところが豊明は大名から寄合に格下げされることを潔しとせず、それに応じようとしなかったため、またも綱吉の怒りに触れて不敬罪で全所領を没収されて改易され、身柄は青山氏に預けられることとなってしまったのである。
1692年6月2日に赦免され、その後、豊明は土佐藩内の小高坂に住んだ。1704年1月17日に死去。享年63。墓所:東京都港区愛宕の青松寺。
豊明が短期間で若年寄辞任を求めたのは、苦しかった藩財政が若年寄就任による出費でさらに苦しくなることを恐れたためと言われている。また、赦免後に豊明が住んだ地は、現在に「大膳様町」という町名を残している。