小笠原長忠 (遠江小笠原氏)
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小笠原 長忠(おがさわら ながただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。遠江高天神城主。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 不明 | |||
別名 | 与八郎(通称)、氏助、氏儀(別名) | |||
官位 | 弾正忠 | |||
氏族 | 小笠原氏 | |||
父母 | 父:小笠原氏興 |
[編集] 生涯
[編集] 今川・徳川・武田時代
小笠原氏興の子として生まれる。はじめ父と共に今川義元に仕えたが、義元の死後に武田信玄、徳川家康の侵攻を受けて今川氏が滅亡すると、徳川家康の家臣となった。永禄12年(1569年)に家督を継ぐ。
家康に仕えてから、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦い、姉川の戦いに参加して武功を挙げた。元亀2年(1571年)3月には武田信玄が大軍を率いて高天神城に攻めて来るが、長忠はわずかな兵力で籠城し、武田軍を撃退した。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いにも参加している。
天正2年(1574年)、武田勝頼が大軍を率いて高天神城に攻めて来る。このとき、長忠は家康に援軍を要請したが、家康は武田軍を恐れて援軍を出さなかったため、やむなく長忠は勝頼に降伏した。このとき、勝頼は駿河富士郷(鸚鵡栖)において1万貫を与え、家臣として迎えている。
[編集] 死去
長忠の没年は定かではない。天正2年(1574年)に勝頼に降伏した後、ほどなくして病死したとも言われている。また天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、北条氏政を頼って小田原に逃れたが、ここで織田信長の命令を受けた氏政によって殺されたとされている。さらに氏政に保護されていたが、天正18年(1590年)に北条氏が滅亡したとき、家康によって捕らえられ、処刑されたとされている。