小泉又次郎
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小泉又次郎(こいずみ またじろう 慶応元年5月17日(1865年6月10日) - 昭和26年(1951年)9月24日)は、大正・昭和期の政党政治家。正二位 勲一等。
いれずみ大臣、いれずみの又さんの異名をもち人情に厚い大衆政治家である。衆議院副議長、逓信大臣、横須賀市長等を歴任した。
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[編集] 来歴・人物
慶応元年(1865年)5月17日、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にトビ職人の父・由兵衛、母・徳の次男として生まれる。又次郎が小学校へ入学する頃、一家は横須賀に移り、海軍の軍艦に労働者、石炭、食料を送り込む土木請負業「小泉組」となる。又次郎本人は家業を嫌い、りりしい海軍士官に憧れていたため家に無断で海軍兵学校の予備校に入学する。しかし兄の急死によって家に連れ戻される。その後も諦めずに次は陸軍士官学校の予備校に再び無断で入学するが、またしても父に見つかり「なんとしても家業を継げ!」と厳命される。その際、軍人を諦めとび職人になることを父親に見せるため全身に「昇り龍」のいれずみを彫った(当時刺青が入っている者は軍人になる事はできなかったため)と言われている。30歳のころには芸者だった綾部直子と結婚する。
板垣退助の演説を聴き政治家を志し、小学校教員、新聞記者などを経て、明治40年(1907年)横須賀市議会議員に当選し議長までつとめる。明治41年(1908年)衆議院議員総選挙で初当選。以後12回当選を数える。憲政会、立憲民政党など非政友会系の政党に所属する。第二次護憲運動で活躍、大正13年(1924年)に衆議院副議長に選出される。この時、党籍を離れ、これが正副議長が党籍を離れる慣例を形成する。昭和4年(1929年)から浜口雄幸、第二次若槻礼次郎の各内閣で逓信大臣をつとめた。「いれずみ大臣」の異名をとる。しかし宮殿での親任式の際には守衛から内務大臣安達謙蔵の従者として扱われる有様であった。
昭和3年(1928年)から4年(1929年)、昭和12年(1937年)から13年(1938年)には立憲民政党幹事長をつとめた。その他、横須賀市長、内閣顧問を歴任する。昭和20年(1945年)から昭和21年(1946年)には貴族院議員に任命された。戦後、公職追放。昭和26年(1951年)9月24日横浜市で没した。享年86。法名は、民政院殿仁誉普徳大居士。
墓所は横浜市金沢区の宝樹院にある
[編集] 著書
- 『普選運動秘史』
[編集] 栄典
- 昭和26年9月24日:勲一等瑞宝章
[編集] 家族 親族
- 父・由兵衛(トビ職人)
- 弟・岩吉
- 妻・ナオ(神奈川県・綾部幸吉二女)
- 庶子・芳江(生母山口ハツ)
- 養子・コウ
- 娘婿:純也(政治家)
- 孫:純一郎(政治家、第87・88・89代内閣総理大臣)
- 曾孫:孝太郎(俳優、タレント)
[編集] 関連項目
[編集] 関連人物
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 日本の閣僚経験者 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 神奈川県の政治家 | 都道府県知事・市町村長 | 1865年生 | 1951年没