小幡篤次郎
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小幡篤次郎(おばたとくじろう、1842年(天保13年)-1905年(明治38年)4月16日)は、明治時代の英学者・教育家・思想家。小幡甚三郎の実兄。
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[編集] 生い立ち・経歴
1842年(天保13年)、豊前国中津藩殿町(大分県中津市殿町)に、中津藩士・小幡篤蔵の次男として生まれる。中津藩の藩校・進脩館(しんしゅうかん) で漢学を修め、教頭となるが、1864年(文治元年)福澤諭吉の勧めで江戸に出る。江戸では福澤の塾に入って英学を学び、塾長を務める(1866年(慶應2年)から1868年(慶應4年/明治元年)まで)。また、幕府の教育機関である開成所で弟・甚三郎とともに英学助教にもなった。1876年(明治9年)の東京師範学校中学師範科(高等師範学校)が創立される際には、その校務に参画。同年、ヨーロッパを歴遊しアメリカを経て帰朝する。1879年(明治12年)には初の東京学士会院会員に選ばれ、翌年には交詢社創立に参与して幹事に推挙される。1890年(明治23年)、貴族院議員に推される。その前年の10月には病気に伏せった小泉信吉の代理として慶應義塾塾長の代理となり、1890年(明治23年)3月には重ねて慶應義塾塾長となる(1897年(明治30年)10月まで。)。1898年(明治31年)4月慶應義塾副社頭に、さらに1901年(明治34年)には社頭となって慶應義塾では福澤に次ぐ中心人物となった。晩年、死期が近づくと、蔵書の半分を旧宅地とともに故郷・中津に寄附し、図書館を設立するよう指示(蔵書の残り半分は慶應義塾に寄附。)。これが現在の中津市立小幡記念図書館のもととなった。
1905年(明治38年)4月16日、病気のため死去。享年64。
[編集] 著書
- 英学者として、1868年(慶應4年/明治元年)に、弟・甚三郎とともに『英文熟語集』を編集・出版。その後も数冊の翻訳書をものす。
- また、『天変地異』『博物新編補遺』など科学啓蒙書を著して好評をはくし、科学知識の普及に貢献した。
- 『学問のすゝめ』初編。福澤と共著した。
- 他にも新聞「時事新報」の創刊に尽力した。