奴隷貿易
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奴隷貿易(どれいぼうえき)とは、大航海時代に、主にヨーロッパとアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開された、プランテーション経営に必要な労働力の国際取引をいう。供給源となったアフリカが西欧諸国を中心とした世界経済システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、アフリカが植民地化され世界経済に包摂されていくにつれ、供給元となる地域の人的資源を急激に枯渇させる奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後人道的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。
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[編集] 奴隷貿易の歴史
ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易は、1441年にポルトガル人アンタム・ゴンサルベスが、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガル皇太子に献上したことに始まる。 大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。
18世紀になると、イギリスのリヴァプールやフランスのボルドーから積み出された銃器その他をアフリカにもたらし、原住民と交換、さらにこうして得た黒人を西インド諸島に売却し、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が発展した。約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋をわたったアフリカ原住民は1,500万人以上といわれている。誤解も多いが、映画で見られるような白人による黒人の奴隷狩りは、極初期を除いて行われていない。奴隷を集めて、ヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人である。映画「アミスタッド」のシンケのように、解放奴隷でありながら、アフリカに帰ると奴隷商人になると言うケースもあった。しかし、それをもってヨーロッパ人に罪はないとする主張もあるので、注意しなくてはならない。
開始と同時に人道的立場からの批判が起こっていたが、特に18世紀後半以降、宗教的・人道的立場と、奴隷価格の高騰という植民地側の事情がうまくかみ合ったので、
19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、イギリスは1808年、世界に先駆けて奴隷禁止を打ち出し、ナポレオン戦争中で海軍力が慢性的に不足しているにもかかわらず、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、ラゴスなどポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧した。その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では1833年、スウェーデン属領では1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に、奴隷制が廃止された。こうした動きの中、アメリカ合衆国では南北戦争での連邦軍の勝利によって奴隷制は全廃された。
[編集] 日本人奴隷の貿易
天文11年(1543年)の鉄砲伝来の後、1540年代後半から始まったと考えられている。16世紀後半にはポルトガルや南米アルゼンチンなどへ送られていた。
天正10年(1582年)にローマへ派遣された天正遣欧少年使節の一行が、各地で日本人奴隷を目撃し、自国人と白人両方への憤りを報告書に記している。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は大坂城へポルトガル人宣教師ガスパール・コエリョを呼び、日本人奴隷の売買を止め海外のすべての日本人を帰国させることなどを命じる。コエリョはスペイン艦隊を呼び戦争の準備を行うが、バテレン追放令発布、高山右近の失脚、長崎の拠点接収で未遂に終わる。
天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布。十条で日本人奴隷の売買が禁止される。
慶長元年(1596年)、宣教師側で奴隷の売買が禁止される。