大礼服
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大礼服(たいれいふく、だいれいふく)とは、貴族・文官・武官等が着用する最高の礼装たる制服をいう。明治20年から明治26年までの間、日本海軍士官の最上級儀礼服装であった「大礼服」の詳細は軍服_(大日本帝国海軍)#正装参照。
日本では、1871年(明治4年)9月4日に「服制ヲ改ムルノ勅語」が出され、更に1872年(明治5年)11月12日太政官布告第373号により文官大礼服が定められる。1886年(明治19年)12月4日宮内省達甲第15号によって、判任官大礼服が廃止され、文官大礼服は高等官(勅任官・奏任官)のみとなる。その後、明治25年12月10日宮内省達甲第8号により改正がなされる。1884年(明治17年)にはフロックコート型の宮内官大礼服(侍従職・式部職の勅任官・奏任官)が定められる。明治44年5月26日皇室令第4号「宮内官制服令」、昭和3年3月16日皇室令第2号により改正される。昭和3年改正により燕尾服型となる。
その他、有爵者・非役有位者などにも大礼服がある。有爵者大礼服は、文官大礼服と異なり、胸部の飾章がなく、立襟型で、肩章が付く。
陸軍武官でこれに相当するものは正装と呼ばれた。海軍武官は、当初は大礼服と呼称していたが、後に正服、更に正装と改称した(軍服_(大日本帝国海軍)#正装参照)。大礼服の代用となる民間服は燕尾服である。
女子の大礼服はマント・ド・クールとされた。戦後はローブ・デコルテ(中礼服)やローブ・モンタント(通常礼服)が主に着用される。
なお、熱帯地域においては、大礼服・燕尾服の着用が困難であるため、明治41年3月2日勅令第15号「外交官及領事官大礼服代用服制」、大正15年9月29日勅令第311号「南洋群島在勤文官礼服代用服制」により、簡略化されたものが用いられていた。
第二次世界大戦後に廃止。
大礼服の構成
- 文官大礼服(1872年(明治5年)11月12日太政官布告第373号)
- 帽
- 勅任・奏任・判任官で共通だが、右側章の繍式飾毛、刺繍、刺繍の密度、釦に差異がある。
- 上衣
- 全部各処の飾章について、勅任は五七の桐を用いて、これに桐蕾章を稠密に絡繍する。奏任は五三の桐を用い桐蕾章は勅任に比して疎にする。判任もまた五三の桐を用いるが桐蕾章は奏任に比して疎にする。
- 上衣飾章の部分
- 勅任は襟・背・胸・袖・側襄・背端にする。奏任は襟・袖側襄・背端のみにする。判任は襟・袖のみにする。飾章及び上衣の周縁に、勅任は雷紋を繍附し、奏任及び判任は無地の単線を用いる。
- 等級標条
- 両袖飾章に繞繍する。その条線は巾一分として、その中間は八厘とする。勅奏判任共各下等を一条として上等毎に一条を加える。
- 釦
- 勅任は金地に五七の桐、奏任は金地に五三の桐、判任は銀地に五三桐を鏤める。そして、上衣に用いるには巾三厘の周縁を凸彫する。また、帽の右側章に附する釦があるが、上衣の釦と同じ。
- 帽
- 等外官の服制
- 上下一般通常の礼服(黒の燕尾服)を用いる。但し等外一等より四等に至り各袖端に等級の標條を紆う。
- 非役有位
- 四位以上の服制は勅任に准じ、五位以下は奏任に准ずる。但し、飾章は御紋を置くほかに桐蕾の唐草を合繍せず、又背端章は円径二寸の御紋一個を附する。但し、四位以上の帽の飾毛は黒色を用い、袴の両側章は電紋単章巾五分を用いる。五位以下は同じくして袴の両側章は単線巾五分のものを用いる。
- 有爵者大礼服