大碇紋太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生年月日は明治2年2月22日説と明治4年3月20日説がある。本名も紋太郎はわかっているが苗字は吉田と竹内の2説ある。後に日比に改姓。
明治18年5月の番付で序ノ口に記載される。明治26年1月新入幕。その後負け越すことなく明治27年5月に小結で7勝1敗1預、明治28年1月に関脇で7勝2敗、大関になった。ところが大関2場所はいずれも勝ち越しているのに降格、怒った大碇は明治29年5月場所番付に張出関脇としてその名を残しながら脱走して京都相撲に加入、大関として迎え入れられる。明治31年1月には雷親方の世話により前頭筆頭格番付外で帰参するが大負けして再度脱走した。
その後は京都の大関として活躍、明治32年4月には五条家から横綱免許を授与された。明治43年2月にある英国人に誘われ海外公演の開催が決定すると大碇は横綱としてその先頭に立ち土俵入りも披露、その後も海外巡業を続けたが大半は帰国しており横綱大碇の帰りを待っていた。ある時帰って来るとの噂が流れると、京都はそれを信用して番付も発表したが結局帰ってくることはなく、大碇は南米での巡業を続けていた。昭和初期にベネズエラから知人に連絡したそうだが、それを最後に消息を絶ち、最期については知られていない。結局大碇が海外巡業に出かけた後で京都相撲は解散してしまったが、海外に相撲を披露するという点では先見の明があったといえるかもしれない。
ある時名古屋相撲との合併興行で名古屋大関の常陸山との割が組まれたのを知ると、「何が名古屋の大関じゃ、儂が東京で大関やってた頃あいつは同じ東京で三段目じゃないか」と対戦を断わった。これを聞いた常陸山は強くなって見返そうと考え、それ以後大坂で稽古に励んだ。明治32年に再度割が組まれた時は流石に大碇も断れず、周囲からは引分にしないかと言われた。しかし引分嫌いの常陸山がこれを断り大碇を投げ飛ばした。その後常陸山は「大碇関のあの発言があるから強くなろうと思いました、もしそれがなければ今でも名古屋大関に満足していたに違いありません」と発言、大碇は自己の不明を詫びたという。