大内惟義
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大内 惟義(おおうち これよし、生没年不明)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士(御家人)。平賀義信の子。新羅三郎義光の曾孫。弟に平賀朝雅がいる。正式な名乗りは源惟義。通称は大内冠者。後に戦国大名となる周防の大内氏とは関係がない。
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[編集] 治承・寿永内乱期の活躍
治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵に対し、源氏の一門として早くから従って戦う。元暦元年(1184年)2月の一ノ谷の戦いにおいても、源義経に従軍して戦った。その功績により伊賀国守護(惣追捕使)に補任される。平清盛ら伊勢平氏の権力基盤の一部であった伊賀を抑える役割を期待されての人事と思われる。同国に存在した大内荘(九条家領の荘園)の地頭職を兼ねたともいわれ、このころから大内を名字とした。
同年、隣国・伊勢に潜伏していた志田義広が捕らえられた際には、惟義の家人が援軍として協力した。6月から7月にかけて同国で平信兼率いる平家の残党に襲われ多くの家人を失い、いったん国外へ逃亡。鎌倉からは山内首藤経俊(平家方からの寝返り)や加藤景員(伊勢出身)・光員らとともに平家の余党を討伐を命じられるが、その指令が届く前に90余人の残党を討って鎮圧した。
[編集] 頼朝側近として
父の平賀義信とともに頼朝から一門の側近武将として信頼され、文治元年(1185年)の除目で、頼朝に従う源氏一門が受領に任命された際、相模守に補任される。翌々年には美濃守に転じた。文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍。翌建久元年の頼朝上洛および同6年(1195年)の再上洛にも随行した。
[編集] 鎌倉・京への両属
頼朝の死後は、京都に赴き、後鳥羽院に近侍した。在京の鎌倉幕府代理人的な立場になって鎌倉と京の連絡役を務めたと思われるが、いっぽうで後鳥羽近臣として朝廷との接触を深めていく。幕府からは、伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護を任命されているいっぽうで、朝廷からは駿河守にも任ぜられていることからも、その両属的な性格がうかがえる。この時期、北条氏が専権を振るい出し、後鳥羽朝廷との対立が尖鋭化していったが、子息の大内惟信の後の行動(後述)から推測すれば、この時期すでに惟義は、心情的には朝廷方へ荷担する意図があった可能性も高い。
建保7年(1219年、のち承久に改元)正月27日、3代将軍源実朝が、右大臣拝賀のため、鶴岡八幡宮へ御参した際(この日、実朝は暗殺される)の『吾妻鏡』の記事中に「修理権大夫惟義朝臣」の名が見えるが、これ以降史料上の消息は不明。おそらくこの年もしくは翌年に死去したものと思われる。
承久3年(1221年)、承久の乱が勃発。後鳥羽院ら京方の挙兵に対し、惟義の死後に近畿6国守護職を受け継いでいた子の惟信は、後鳥羽院の下へはせ参じ、京方として鎌倉幕府軍と戦う。しかし、あえなく敗戦して消息を絶ち、ここに源氏一門御家人・大内氏は滅亡する。
後鳥羽院が惟義を尊重した理由の一つに来るべき討幕の日のために歴戦の武将である惟義を味方に付けておきたいという思惑があったと考えられる。もし、承久の乱で若年の惟信ではなく惟義が朝廷軍を率いていたならば、幕府軍は苦戦を余儀なくされて戦況は違ったものになった可能性もある。