大倉ダム
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大倉ダム(おおくら-)は宮城県仙台市青葉区大倉字高棚地先、名取川水系広瀬川の左支川、大倉川に建設されたダムである。
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[編集] 歴史
大都市・仙台を抱える名取川水系では、20世紀に入って仙台市への上水道供給を目的とした河川開発が進められていた。既に仙台市水道局によって支流の青下川に青下第1ダム・青下第2ダム・青下第3ダムが建設されていたが、戦後1950年(昭和25年)頃より急激に仙台市の人口が増加、将来的に水需要が逼迫する事が目に見えていた。
この為仙台市では大倉川に1954年(昭和29年)上水道専用ダムとして「大倉川水源拡張事業・定義ダム計画」を策定し、水需要に対処しようとした。貯水量2200万トンのダムを大倉高見沢囲に建設するもので、水没家屋・農地は最近入植があった十里平の5戸に限られる。
一方、名取川水系総合開発事業を進めていた建設省(現国土交通省東北地方整備局)は支流の碁石川に釜房ダム、大倉川に大倉ダムを建設して名取川の治水と仙台市への水道供給を図ろうとした。市の計画より約10km下流、大倉岩下囲に一回り大きなダムを建設するもので、大倉の中心部で50余戸が水没する。
ダム計画をめぐる宮城音五郎知事と岡崎栄松市長の対立は数年続いたが、建設省が県の計画に肩入れしたため、市長が断念した。仙台市は県の河川総合開発に参入し、「大倉川水源拡張事業」は「大倉川総合開発事業」に統合された。
この間、建設予定地の大沢村は、合併して宮城町になった。水没者はダム建設反対運動を起こしたが徹底せず、立ち退きに応じた。このとき、補償金交渉の当事者となった国側の大倉ダム建設事務所の所長と住民側の右岸ダム建設反対期成同盟の会長が結託して、支払い額と実際に住民に渡される額とを違え、差額を着服した。事件は1958年(昭和33年)に発覚した。混乱の末に、補償を受けた水没家屋は58戸、田畑は67ヘクタールになった。
ダムは1956年(昭和31年)に建設開始になり、1961年(昭和36年)に完成、同年より管理を宮城県に移管した。建設省東北地方建設局管内では大倉ダムの他に目屋ダム(岩木川本川)・鎧畑ダム(雄物川水系玉川)・皆瀬ダム(雄物川水系皆瀬川)が同時期に地方自治体へ管理が移管された。
[編集] 東日本唯一のマルチプルアーチダム
ダムの高さは82.0m。型式はマルチプルアーチダムである。これはダム地点の岩盤が堅固だが河谷が広い為であり、中央部に人工のアバットメント(支壁)を築きダブルアーチの構造とした。マルチプルアーチダムは日本では大倉ダムのほかは5連のマルチプルアーチダムである豊稔池ダム(香川県)があるのみで、日本に2基しかない極めてレアなタイプである。東日本ではこの大倉ダムだけであり、極めて貴重なダムとも言える。目的は洪水調節、不特定利水(四ッ谷堰取水分の既得用水維持)、大倉川・広瀬川沿岸の大倉土地改良区が運営する農地への灌漑、仙台市・塩竈市・多賀城市等への上水道・工業用水、水没する旧大倉発電所の代替施設としての発電と、多目的ダムの中でも用途が広い。
ダムの上流に定義如来があり多くの参拝客が訪れる他、近くに作並温泉があって観光地となっている。仙台市営バス定義線は、このダムサイト上を路線としており、定義如来へ行くバスが通る(2006年9月までダム付近工事のため迂回)。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 菅野照光・編『沈んだ村』、1989年、創栄出版。ISBN 4-88250-105-8
- 『日本の多目的ダム』1963年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1963年
- 財団法人日本ダム協会 『ダム便覧』 大倉ダム
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