夏侯覇
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夏侯覇(かこうは、191年? - 257年?)は、三国時代の魏、後に蜀漢の武将。字は仲権(仲權)。魏将・夏侯淵の次男。娘に晋の都督荊州諸軍事羊祜の夫人がいる。また、史書によると息子が数人いた(夏侯献らのことか)。
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[編集] 略要
[編集] その生涯
幼少の頃の事は定かではないが、建安二十四年(219年)に、定軍山の戦いで父の夏侯淵(と弟の夏侯栄)を劉備に斬られた事から、若き夏侯覇は常に亡父の復讐の機会を窺い、己に磨きをかけていた事が伝えられる。後の正始五年(244年)に曹爽が蜀征伐を行なった際には先鋒を務め、この戦いの要地となった興勢を包囲している。
後に右将軍、転じて征蜀護軍に昇進した。だが、嘉平元年(249年)に司馬懿が曹爽を誅殺し、曹爽の従弟の征西将軍の夏侯玄も朝廷に召喚される(後に殺害された)という事件が起こる。この夏侯玄は、夏侯覇の従子(一族の中で一つ下の世代で、さらに亡父・夏侯淵の甥で夏侯覇の従兄の夏侯尚の嫡子)に当たり、さらに、仲の悪い郭淮が、夏侯玄に代わって征西将軍の後任となった。これらの事で自らの身に危険が及ぶのを恐れた夏侯覇は、這々の体で蜀漢に逃亡した。蜀漢の暦で言う延煕十二年のことである。
蜀漢の皇帝である劉禅の皇后は、創業の功臣である張飛の娘であり、その母親(張飛の妻)が夏侯覇の族妹(遠縁の“いとこ”、或いは姑母(おば)ともというが真偽の程は不詳である)であったことから手厚くもてなされ、後に車騎将軍に任じられている。それ以降の事績については、延煕十八年(255年)に衛将軍の姜維と共に 狄道に出て、魏の雍州刺史の王経を大破した戦果が伝えられるのみで、蜀漢が滅亡した景耀六年(263年)の時点では既に死亡しており、諡号が贈られたという。
[編集] 演義での夏侯覇
『演義』では、夏侯淵の長子であり、張飛と長坂で戦っている。(別人の夏侯傑と思われる)蜀に亡命してからは姜維の参謀として北伐に幾度となく参加し、景耀五年(262年)冬10月、第八回目の戦いで戦死した。
[編集] 夏侯覇の子について
一説では、魏の中領軍・領軍将軍の夏侯献は親族の明帝の信頼が篤く、曹爽と曹肇らと共に後事を託された事項があったことを見ると、彼の息子と思われる。なお、夏侯覇の子供達は司馬懿によって、夏侯覇の反乱が鎮圧されると、その多くが楽浪郡に流されたという。