境勝太郎
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境 勝太郎(さかいかつたろう、1920年3月6日 - )は、元騎手(札幌競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(日本中央競馬会)。現在は競馬評論家。北海道出身。
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[編集] 経歴
北海道・倶知安競馬場で競馬の競走を観たのをきっかけに騎手を志す。 1935年、札幌競馬場の清水茂次厩舎で見習騎手となり、1936年、同競馬場の川崎敬次郎厩舎で騎手となる。騎手時代は星川泉士厩舎・久保田金造厩舎・二本柳俊夫厩舎など合計10もの厩舎に移籍を繰りかえしつつ、1944年の農商省賞典(皐月賞)(クリヤマト)、1950年の桜花賞(トサミツル)、1953年の天皇賞(秋)(クインナルビー)などに優勝した。ちなみにクインナルビーは後に怪物と称される名馬オグリキャップの五代前の母で、境自身オグリキャップの活躍にクインナルビーを思い出して内心喜び、「良い牝系は必ず後に名馬を産み出す」と語っている(オグリキャップは牝系以外は決して良血と言える血統ではないため)。
1966年、調教師免許を取得し白井にある中山競馬場の分場で厩舎を開業。当時は2400mの追い切りをかけるのが一般的な競走馬の調教手法であったが、白井の調教コースは1周1400mしかなかっため、1000mの追い切りをかける手法を採りいれ、美浦トレーニングセンター開設後もそのスタイルを貫いた。
1973年にスプリンターズステークスをキョウエイグリーンで制し重賞初制覇。1970年代後半以降は「サクラ」の冠名で知られるさくらコマース所有の競走馬によって数々の重賞・GIに優勝した。JRAが調教師の70歳定年制を導入したことに伴い、1997年2月28日、晩年の最高傑作・サクラローレルによる前年の有馬記念優勝を置き土産に調教師を引退した。
馬の蹄及び蹄鉄を重要視しており、「自分の見ていないところでは絶対に削蹄させなかった。どこを何ミリ削るかが成績や故障の原因になる」と著書で述べている。また、サクラローレルが海外遠征で故障した際も「故障の原因の一つは日本から装蹄師を同行させなかったことにある」旨のコメントをしている。
騎手時代には牝馬で勝利を収めることが多かったが、なぜか調教師になってからは逆に牝馬の成績が牡馬に比べて低かった。
人物的には強気の性格の持ち主として知られ、騎手時代から競馬マスコミの前で強気のコメントを連発することが多く、「境ラッパ」の異名をとった。また直言家でもあり、管理馬の騎乗を巡って、小島太や横山典弘といった厩舎の主戦騎手をマスコミの前で批判することも多かった。現在もスポーツニッポン紙上にて、「美浦の黄門様」として歯に衣着せぬ競馬評論を行っている。
[編集] 成績
[編集] 騎手成績
[編集] 主な勝ち鞍
- 皐月賞(1944年クリヤマト)
- 桜花賞(1950年トサミツル)
- 天皇賞(秋)(1953年クインナルビー)
[編集] 調教師成績
通算成績5202戦656勝、重賞53勝
[編集] 主な勝ち鞍
- 天皇賞(春)(1996年サクラローレル)
- 天皇賞(秋)(1979年スリージャイアンツ、1986年サクラユタカオー、1995年サクラチトセオー)
- 東京優駿(日本ダービー)(1988年サクラチヨノオー)
- 有馬記念(1996年サクラローレル)
- エリザベス女王杯(1995年サクラキャンドル)
- スプリンターズステークス(1993年サクラバクシンオー、1994年サクラバクシンオー)
- 朝日杯3歳ステークス(1987年サクラチヨノオー、1988年サクラホクトオー)
[編集] 受賞
- 優秀調教師賞(関東)(1986年)
- 調教技術賞(関東)(1971年、1973年、1975年、1978年、1980年)
- 重賞獲得調教師賞(1986年)
- 東京記者クラブ賞(1996年)
- スポーツ功労者 文部科学大臣顕彰(1995年度)