塩路一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
塩路 一郎(しおじ いちろう、1927年1月1日 – )は日本の労働運動家。元自動車総連会長。かつて日産自動車社内において、「塩路天皇」の異名を取るほどの権勢をふるっていた。
[編集] 来歴・人物
東京都神田生まれ。後に芝区(現・港区)に移転する。父親は「小児牛乳」という牛乳会社を共同経営していた。第一東京市立中学校(現・東京都立九段高等学校)を卒業すると、月謝不要の海軍機関学校に入学した。少年時代から機械いじりを好み、ラジオの組み立てなどに熱中していたので、将来はエンジニアとして、海軍の技術将校か、大企業に技術系社員になることを夢見ていた。
終戦後、まもなく父親が死去し牛乳会社も解散された。幼い弟妹を養うために塩路は、引揚者輸送、ダンス教師、ラジオ修理店店員など様々な職業に就き、戦後の混乱期を生き抜いていた。1949年、日本油脂に就職を果たす。倉庫勤務の傍ら、明治大学法学部の夜間部に入学、また労働組合から勧誘されはじめて労働組合運動というものを認識した。
しかし、塩路からみて組合の幹部を占める共産党員は、目的のために手段を選ばないように映り、嫌悪の念を覚えるようになった。やがて組合幹部から忌避され、「資本家のイヌ」のレッテルを貼られるに至り、転職を考えるようになる。
1953年、明治大学を卒業した塩路は日産自動車に入社した。当時官学偏重の日産にとって異例の採用であった。塩路は人事部長に「受験だけは、差別待遇をせず、平等に取り扱って欲しい」と、3日間に渡って日参して直訴し、入社試験受験にこぎつけたといわれている。なぜ入社できたのかについては、日本油脂時代の反組合の経歴が、組合活動に悩んでいた人事部長にアピールしたからではないかと、三鬼陽之助は著書『日産の挑戦』(光文社、1967年)の中で推測している。当時の日産は、委員長益田哲夫の率いる総評系の全日本自動車産業労働組合日産分会が、全国最強の労働組合と呼ばれるほどの勢力を有していた。横浜工場の経理課に配属された塩路は早速反組合派として認知されるようになる。
入社後まもなく、1953年夏より4ヶ月間におよぶ大争議が起きたが、敗退を契機に第一組合の勢力は弱まっていった。1953年8月に第二組合が結成されると、塩路は新入社員であるにも関わらず会計部長の要職についた。その後ハーバード大学ビジネス・スクールへの留学(1959年~1960年)を経て、1961年日産自動車労組組合長、1962年自動車労連会長、1964年同盟副会長にそれぞれ就任した。川又克二社長との蜜月関係を保ちながら、企業の発展を旗印に、係長・職長クラスの職制組合員を掌握し、労使協調路線を定着させていった。1965年にプリンス自動車と合併すると、総評系全国金属の傘下にあった労働組合に対し、幹部への懐柔工作や、傷害事件として訴えられるなどの組合員への暴力・圧迫によって、たちまち少数派に追い込んでいった。
1972年、自動車総連を結成し会長に就任。労働界では民間労組主導型の労働戦線統一の推進者となり、1982年に全民労協(全日本民間労働組合協議会)の結成に際して副議長となった。また1969年にILO(国際労働機関)理事に当選するなど、国際的な活躍も華々しいものがあった。組合の専用車はプレジデント、品川区に7LDKの自宅、自家用ヨットを所有し、「労組の指導者が銀座で飲み、ヨットで遊んで何が悪いか」とうそぶく、まさに「労働貴族」の名に相応しい権勢振りであった(高杉良の小説『労働貴族』のモデルともなっている)。
1977年に社長に就任した石原俊は、世界市場の1割確保を目標とする経営方針「グローバル10」を策定し、積極的に海外進出を進めていった。その一環として、英国工場建設を企画したところ、塩路は猛反対し、「強行したら生産ラインを止める」などと迫った。これを期に、経営陣との関係が険悪化していった。その後、女性スキャンダルが発覚し、長年塩路体制下で不満を鬱積させていた職制組合員からの突き上げを受け、1986年2月に一切の役職を辞任し、労働組合から引退した。1987年には定年退職したが、かつての影響力は失われた。