四条隆謌
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四条 隆謌(しじょう たかうた、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治31年(1898年)11月24日)は江戸時代末期から明治時代にかけての日本の華族、陸軍軍人。官位は陸軍中将正四位勲二等侯爵に昇り、元老院議官・貴族院議員を務める。権大納言四条隆生の三男で、醍醐輝久の孫。安政勤王八十八廷臣の一人。
幕末の隆謌は攘夷派公卿として幕府に建言していたが、政変によって一時失脚し官位を剥奪された。明治に入ると中国四国追討総督・大総督宮参謀・仙台追討総督・奥羽追討総督平潟口総督などを務め、明治2年(1869年)7月に陸軍少将に任ぜられる。明治5年(1872年)1月には大阪鎮台司令長官に就任、明治7年(1874年)4月に名古屋鎮台司令長官に移るが、明治10年(1877年)5月には大阪鎮台司令長官を兼ねた(同年中に兼職を免ぜられる)。明治13年(1880年)の仙台鎮台司令長官を経た後明治14年(1881年)2月に陸軍中将に昇り元老院議官に就任する。明治17年(1884年)7月に伯爵、明治24年(1891年)4月に侯爵に昇爵し、貴族院議員となる。明治26年(1893年)12月、予備役。明治31年(1898年)11月薨去。
隆謌の長男隆愛は陸軍に入り、陸軍少佐まで進む。七男の実輝は一条家に入り海軍大佐公爵・東宮侍従長等を務める。三女加根子は三島弥太郎子爵に嫁ぎ、通陽を生む。