喧嘩
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喧嘩(けんか)とは、個人間において、意見や利害の対立を言葉の応酬または腕力で解決することを指す。おおむね会話や性行為と同様、コミュニケーション行為であるが、腕力の場合、エネルギーが破壊的であることと、相手を殺傷する危険性があることから、可能であるなら対話で解決するほうがよい。ただし、対話ではお互いが納得できないほど対立が根深い場合には、対立解消に有効な場合がある。行動の様式美や、思想、人生哲学などから喧嘩が発生することも多い。
尚、言葉の応酬で行う喧嘩を口喧嘩(くちげんか)と言う。
児童文学の世界では、女性作家よりも男性作家のほうが自身の体験から喧嘩の場面の描写が巧みだと言われる。男の子の世界では、喧嘩の一つも出来ないようでは、女々しいと言われてきた。
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[編集] 歴史上の使われ方
現代日本では、素手や殺傷性の少ない武器で私闘することを呼ぶが、江戸時代以前及び海外では群衆があつまり騒ぐことや、刀剣などを使う私闘全体を指す。語義としてはおおっぴらにやかましく騒ぎ立てることの意義であり、喧騒などと同義である。「喧嘩」を物理力をともなう抗争、とりわけ公認されていない私闘の意味として利用された出典や経緯については十分な考証がなされていない。
古代・記紀の時代にあらそい事は「忤(さか)ふ」「諍(いさか)ふ」などと表記され、喧嘩という表現は、中世・吾妻鏡(東鑑)の頃より利用されはじめたものと見られる。吾妻鏡治承四年(1180年)の項に「小八郎太夫等喧嘩之時、六條廷尉禪」との表記が見られる。
中世ではおもに家人間での殺傷事件や、国人一揆の騒乱などをさし、戦国時代には行軍法度などに喧嘩の禁、喧嘩両成敗などの文脈で使用された。両成敗法は軍事行動のさいの軍内部の騒乱を抑制するための非常事態宣言の要素が強い行軍法度であり、平時の分国法においては騒乱に対して両成敗法を適用されることはなかった。その一方、特色的に織田信長は天正五年(1577年)「定安土山下町中」いわゆる楽市楽座令において喧嘩口論を禁じる制札を発している。
江戸期には元禄赤穂事件では両成敗法を根拠に高家吉良(吉良義央、吉良上野介)を成敗すべしとした浅野家家臣らに対して幕府首脳や荻生徂徠ら儒学者がこれを認めない処置を下している。これは後に戯曲化した忠臣蔵の興行などにより「喧嘩両成敗」なる表現とともに庶民のあいだに定着した。ただし、喧嘩両成敗とは喧嘩を仕掛けられてしまった側にたいしても、喧嘩を仕掛けた側と同等の責任をもたせるという法であって、先述のように軍事行動や御家騒動などの非常事態においては妥当性を評価されることはあれ平時の法としては異常なものであり、当時の幕府の判断に問題があったとは言いきれないものだろう。
文政五年(1822年)に上演された歌舞伎「御摂曽我閏正月」では文化五年(1805年)におきた江戸の鳶火消し「め組」の喧嘩を題材に、庶民の私闘に対する美意識を芸能に昇華している。
[編集] 近年の傾向
近年では、特に児童の親の間では暴力を良しとしないどころか、かつては健全に行われていた(いわゆる刃物など凶器を用いない)児童間の喧嘩でさえ忌避する傾向がある。たしかに、ただの喧嘩に刃物を用いることなど言語道断であるが、かつてからよく見られていた殴り合うことまで禁止しては、暴力の痛みや加減を知ることができないまま成長してしまう。さらに、加減を知らないがために大惨事になることも考えられる。
特に、男の子どうしは、大人になるまでは得てして言葉だけでは語り切れないことがあり、手が出てしまうこともある。いじめが発生し、修復できなくなる(場合によっては不登校や自殺など)くらいどうしようもなくなるまえに喧嘩でガツンと言わせることも、周囲へのアピールとなりいじめの悪化を防ぐことにもつながる。
ただし、逆に喧嘩からいじめが発生することもあるので一概には言えない。また、今までは喧嘩で処理されていたものも、校内暴力といて処理されつつあるため、問題視されることがある。
[編集] 慣用句
- 口喧嘩
- 喧嘩腰
- 喧嘩別れ
- 喧嘩早い
- 喧嘩を売る
- 喧嘩を買う
- 喧嘩両成敗
- 金持ち喧嘩せず
- 喧嘩の側杖
- 喧嘩は降り物
- 喧嘩に被る笠は無し
- 喧嘩過ぎての棒千切り
- 痴話喧嘩
- 一人喧嘩はならぬ
- 子供の喧嘩に親が出る
- 火事と喧嘩は江戸の華
- 夫婦喧嘩は犬も食わぬ
- 相手の無い喧嘩は出来ぬ
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 関連書
- 清水克行 『喧嘩両成敗の誕生』 講談社選書メチエ 講談社 ISBN 4062583534