吉田岩窟王事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田岩窟王事件(よしだがんくつおうじけん)とは大正時代に発生した強盗殺人事件である。事件は名古屋の小売商が殺されたものであったが、他の冤罪事件である松山事件や免田事件と違い、殺人事件の概要はあまり知名度がたかくなく、殺人事件で有罪にされた冤罪の男性が、無罪を勝ち取った事件のことを意味することが多い。そのため、殺人事件に対する名称ではなく、被疑者の虚偽の供述から主犯とされた男性が冤罪を訴え、事件発生から半世紀後にして再審で無罪が言い渡された冤罪事件を指し示すことが一般的である。
なお、事件名である吉田岩窟王事件は通称の一つであり、他に昭和の岩窟王事件、日本岩窟王事件、吉田翁事件など複数の名称でよばれる。一般的には吉田岩窟王事件が多少広く使われているようである。
目次 |
[編集] 事件の概要
1913年8月13日の夜、現在の名古屋市千種区の路上で繭小売商の男性が殺害され、1円20銭が奪われた。翌日被疑者として2人の男性が逮捕されたが、彼らの供述から主犯として吉田石松(当時34歳、1879年-1963年)が逮捕された。だが、この供述は(他の冤罪事件にも見られることであるが)共犯者が自分たちの罪を軽くするためにまったく無関係の第三者であった吉田を主犯にすりかえたものであった。当時の捜査当局は自白偏重主義であり、この虚偽の自白を真実と信じて吉田に拷問を加えたが、終始否認を続けた。にもかかわらず、一審では「従犯」とされた2人に無期懲役、吉田に死刑が言い渡された。控訴審、上告審では無期懲役が言い渡され、刑が確定して吉田は服役した。
[編集] 冤罪の訴え
吉田は1918年に獄中からアリバイの成立を主張して2度の再審請求を行ったが棄却された。吉田は小菅監獄に入れられていた。しかし、無実を訴え、獄中で暴れてたりしていたため拷問を受けていた。吉田は網走へ移動させられる。しかし、そこでも小菅での様子と変わらずにいた。そして秋田刑務所へ移された。秋田刑務所の所長がこの事件の不審な点について調べなおし、吉田が関与していないことに気づく。そして仮出所の手続きを試み(罪を認めていない吉田を仮出所させるのは異例だった)、無実を訴え暴れていた吉田に再審請求を薦める。
そして1935年3月に仮出獄したのちに、自分を陥れた2人が先に1930年に仮出所して埼玉県にいるのを新聞記者の協力で探し出し、虚偽の自白をしたことを認める詫び状を1936年11月に受け取った。探し出すにあたって協力した大審院(現在の最高裁)担当の司法記者が、この様子を1936年12月15日付都新聞(現:東京新聞)にアレクサンドル・デュマ・ペール著の小説「巌窟王」になぞらえた「今様巖窟王」として掲載した。このときの記事が事件名の由来となった。
この詫び状をもとに3度目の再審請求を行ったがこれも棄却された。吉田はその後第二次世界大戦中も疎開先の栃木県から無罪を訴え続けた。戦後になり1952年6月には新聞社や弁護士にも訴え、1958年には4度目の再審請求を行ったがこれも棄却された。しかしこの頃になると世論の関心も高まり、1959年10月には日本弁護士連合会が特別委員会を設置し国会も人権擁護の観点から動き出した。そのため1960年4月には5度目の再審請求を名古屋地裁が認めたが、名古屋高裁では検察側の異議が認められ一度は取り消しになった。しかし特別抗告した最高裁は名古屋高裁の判断を違法なものとして取り消したため、ようやく再審が決定し1962年12月6日から名古屋高等裁判所で審議開始された。
[編集] 無罪判決
名古屋高等裁判所は1963年2月28日に、吉田のアリバイが成立することを認め無罪判決を言い渡した。判決文の最後では冤罪に対する謝罪(有罪判決は天皇の名のもとに下された旧刑事訴訟法で行われたが、法手続上は合法であるため、人道上の観点から裁判所が謝罪するのは異例であった)が行われ被告人ではなく吉田翁として問いかけ、「余生に幸多からんことを祈る」と言った後に、出廷していた裁判官3人が頭を下げる場面があった。その後不当に身柄拘束された21年7ヶ月7日(7889日)の月日に対し1日あたり400円の刑事補償が支給された。吉田は長い冤罪の戦いが終結したことで人生の重荷がおりたかのように、1963年12月1日に老衰によって永眠(享年84)した。