吉川元長
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吉川 元長(きっかわ もとなが、天文17年(1548年) - 天正15年6月15日(1587年7月20日))は吉川元春の嫡男。母は熊谷信直の娘。幼名は鶴寿丸。
[編集] 生涯
1548年に吉田郡山城にて誕生する。その2年後に父母とともに小倉山城へと入り、同年中に日野山城へと入った。鶴寿丸はここで幼年期を過ごすこととなる。1561年に伯父毛利隆元の加冠により元服。元資(もとすけ)と名乗った。1565年から始まる「月山富田城の戦い」において、従兄弟の毛利輝元と共に初陣を飾っている。その後も父・元春に従い、山陰各地で尼子残党との戦いを繰り広げている。
1573年に元長と改名している。1575年には所領に「万徳院」を建立した。同年因幡国に進出した尼子残党の征伐を行った。尼子残党は執拗に再起を繰り返したが、1578年の上月城の戦いで、尼子勝久や山中鹿介らは自刃もしくは処刑され、禍根を断つことに成功している。1581年には、羽柴秀吉に攻囲された吉川経家が籠る鳥取城の救援に向かったが、余りにも兵数が違うために手出しができず、吉川元春率いる本隊をを待つ間に鳥取城は降伏し、吉川経家は自刃した。
1582年、羽柴秀吉と毛利氏が和睦すると、父・元春は輝元や隆景と秀吉に対する姿勢の違いにより、家督を元長に譲って隠居した。1586年にはそして同年、父とともに「秀吉の九州征伐」に出陣したが、同年冬に元春は病のために小倉城にて死去する。
1587年5月、元長は出陣先の日向で病に倒れた。吉川氏の家督は弟の経言に譲り、6月15日に死去。享年40。
[編集] 人物
父同様に武勇に優れており、かつて父が『太平記』を尼子氏討伐戦の最中に書写したように、元長も書や宗教にも興味を示す教養人であった。元長は父・元春の影響を強く受けた戦国武将であった。
元長が建立した万徳院はその後、周防岩国に移転し、吉川氏の菩提寺となった。安芸の万徳院跡はその後400年放置され、荒れるがままとなっていたが現在は公園として整備されている。
[編集] 関連項目
- 万徳院[[1]]