古賀政男
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古賀 政男(こが まさお、1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和の作曲家。国民栄誉賞受賞者。
本名、古賀正夫。少年時代に弦楽器に目覚め、青年期マンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽。大正琴をこよなく愛した。プレクトラム音楽家・「古賀正男」から流行歌王・「古賀政男」になり、国民的な作曲家としての地位を確立。多くの流行歌をヒットさせた。東京芸大出身のクラシックの正統派藤山一郎から、演歌の女王・美空ひばりまで幅が広い。その作品は5000曲とも言われている。
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[編集] 歴史
[編集] 幼少期
古賀政男は福岡県三潴郡田口村(現、大川市)に生まれた。その故郷は詩人北原白秋でおなじみの水郷豊かな柳川の近くでその田園風景は今も変わらぬ風景を残している。その風景は後年の『誰か故郷を想わざる』の作品になった。古賀少年の最初に耳にした西洋楽器はサーカス小屋から聞こえてくるもの悲しいクラリネットの響きだった。また、旅芸人の月琴の音は初めて聞く弦楽器だった。7歳で父が死亡、思い出深き田口村を離れ、朝鮮に渡り感情起伏の激しい少年時代をすごした。故郷喪失の悲しみは「人生の並木路」のモチーフとなった。故郷捨てた古賀少年はまず仁川にそして京城へ。従兄弟から大正琴をもらったのもこの頃である。古賀政男が初めてマンドリンを手にしたのは中学三年(京城善隣商業学校)のときだった。、一番仲のよかった兄からマンドリンを送られ、音楽の夢をより炎のように燃えあがらせた。
[編集] 青年期
京城善隣商業学校を出て大阪の商店に勤めたのち、1923年に苦学して東京の駿河台にある明治大学に入学し、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画した。当時の明大マンドリン倶楽部は、プレクトラム音楽の可能性の限界を突き破ろうという姿勢があきらかにみられた。ボッタキアーリ、ラウダス、バッチなどのマンドリンの大曲が演奏されている。古賀も「幻想的狂想曲」(ロマーノ)の難曲を独奏するなどマンドリンの演奏技術は相当なものであった。昭和3年夏、古賀は謎の自殺未遂を図る。蔵王の夕暮れを見て「影を慕いて」の詩が浮かんだと言われている。その年の秋の定期演奏会は明治記念館講堂で盛大に開催された。マンドリンと管楽器との融合、佐藤千夜子の日本歌曲の独唱など今までに無い斬新的な演奏会だった。このとき佐藤千夜子と知遇を得たことは古賀の人生を大きく変えることになる。また、このとき「音楽は和也」の理念が生れた。1929年6月、明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で『影を慕いて』(ワルツ・ギター合奏)を発表。その年の暮れには、佐藤千夜子の歌唱とマンドリンオーケストラを率いて、「文のかおり」など自作品をビクターで吹込んだ。1930年秋には『影を慕いて』をビクターで佐藤千夜子の歌唱によって吹込む。この時は、まだマンドリン・ギター演奏家「古賀正男」だった。1931年1月新譜でレコードは発売されたが、あまり売れなかった。藤山一郎の登場を待たなければならなかった。尚、『影を慕いて』の創作過程については、菊池清麿による古賀政男の研究評伝に詳細に記されている。
[編集] 作曲家としての誕生
卒業後の1931年、日本コロムビア専属となり、作曲家「古賀政男」の誕生となった。古賀が当初作曲に自信が無く文芸部の社員を希望したが、結局作曲家として契約した。『酒は涙か溜息か』、『丘を越えて』、『影を慕いて』の3曲がSPレコードで発売され、以降数々のヒット曲を世に送り出した。いずれも藤山一郎の声楽技術を正統に解釈した歌唱によるものである。クルーン唱法で古賀政男のギター曲の魅力を伝え、その一方で張りのある美声で古賀メロディーの青春を高らかに歌った。『丘を越えて』は大ヒットした。翌年『影を慕いて』が藤山一郎の歌唱によってリバイバルされ大ヒットする。豊かな声量をメッツアヴォーチェにした名盤が出来上がった。だが、藤山一郎は東京音楽学校卒業後、ビクターへ行く。
[編集] 作曲家としての活動
1933年、松平晃が歌唱した『サーカスの唄』がヒット。少年時代に聞いたジンタの響きが曲想に生かされた。しかし、それ以後はビクターの佐々木俊一、コロムビアでは江口夜詩、1934年に入ると、ポリドールの東海林太郎の登場などがあり、この頃、古賀政男はスランプに陥った。離婚騒動などもあり、体を壊し、昭和8年の晩秋から翌年にかけて伊東で静養した。1934年、古賀政男はコロムビアからテイチクに移籍。事業経営と創作に手腕を発揮した。ビクターから迎えた藤山一郎、日本最高峰のジャズシンガーであるディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などを擁し、『緑の地平線』『二人は若い』『東京ラプソディー』『あゝそれなのに』『青い背広で』『人生の並木路』など古賀メロディー黄金時代を築く。
1938年秋、外務省の音楽文化親善使節として渡米。渡米直前にコロムビアに復帰した。1939年秋、アメリカNBC放送で古賀政男の作品が取り上げられ全米にそのメロディーが流れた。帰国後、コロムビアで再びヒット曲を飛ばす。『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・。映画音楽を中心に第三期古賀メロディー黄金時代を築く。
戦後は、終戦直後の廃墟、焼け野原に愛情の歌声が湧き上がるような歌を作曲することを念頭におき創作活動を再開した。1948年に近江俊郎が吹込んだ『湯の町エレジー』が大ヒット。同年には「古賀ギター歌謡協会」(後の古賀ギター学院)を設立。朝鮮特需景気を背景にお座敷小唄でもユニークな作品を作った。
1960年代に入り、歌謡界の変貌とともに古賀政男は美空ひばりに接近した。古賀メロディーよりも濃い船村徹のふるさと演歌、遠藤実、都会派歌謡の吉田正、ジャズのフィリングを生かした中村八大などの台頭もあり、古賀政男には新しいスタンスが必要となった。美空ひばりが歌った『悲しい酒』は戦後の古賀メロディーの代表曲である。また、『柔』は美空ひばりが歌いレコード大賞を受賞した。
「古賀メロディ」とよばれるこれらの曲は、初期はマンドリン・ギターなどの影響、ジプシー音楽技法による作品があったが、1936年に発表した『愛の小窓』以後、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向が強まり、1955年以降は演歌の作曲家のスタンスを確立した。伴奏は、自ら指揮するマンドリンオーケストラ、ギターアンサンブル、三味線、ギター、マンドリン、大正琴などを使用し、朝鮮民謡や大陸音楽の影響も少なからず受けたという。少年時代の叙情核、マンドリン・ギターのクラシック音楽などその楽曲はセンチメンタリズムに終始することなく、モダンライフを歌った曲も多い。
作曲活動の傍らで1958年には日本作曲家協会を創設。初代会長となった。
古賀政男の音楽人生は昭和の歴史そのものと言えよう。
[編集] 主な作品
[編集] 演じた俳優
[編集] 参考文献
- 『「演歌」のススメ』:藍川由美、文春新書、文藝春秋 ISBN 4166602829
- 『評伝古賀政男 青春よ永遠に』アテネ書房 ISBN 4871522318 :2004年、生誕100年を記念して、明治大学マンドリン倶楽部出身の菊池清麿が上梓。古賀政男の全生涯にわたる本格的伝記評伝である。
- 『謎の森に棲む古賀政男』:下嶋哲朗、講談社 ISBN 4-06-209272-7
[編集] 外部リンク
国民栄誉賞 |
王貞治 | 古賀政男 | 長谷川一夫 | 植村直己 |
山下泰裕 | 衣笠祥雄 | 美空ひばり | 千代の富士貢 |
藤山一郎 | 長谷川町子 | 服部良一 | 渥美清 |
吉田正 | 黒澤明 | 高橋尚子 |