分倍河原の戦い (鎌倉時代)
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分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。
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[編集] 背景
元弘3年(1333年)5月、新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。新田軍は一族や周辺豪族を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて武蔵国へ進む。利根川を越えた時点で足利高氏(後に尊氏)の嫡子千寿王(後に足利義詮)が合流。外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わったことにより、周辺の御家人も加わり、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。
さらに新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍を5月11日小手指ヶ原の戦い、5月12日久米川の戦いで、相次いで撃破。幕府軍は、武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、分倍河原(現在の東京都府中市)に撤退した。
[編集] 経過
鎌倉幕府は、小手指ヶ原・久米川の敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく、北条高時の弟北条泰家を大将とする10万の軍勢を派遣。分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した。5月15日、2日間の休息を終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始。が、援軍を得て士気の高まっていた幕府軍が、逆に新田軍を撃破。新田軍は堀金(狭山市堀兼)周辺まで退却を余儀なくされた。この敗走の際、武蔵国分寺が焼失したといわれる。
翌5月16日新田軍は、援軍に駆け付けた三浦義勝の献策により、未明に幕府軍を急襲。幕府軍は敗走し、関戸(東京都多摩市)にて壊滅的打撃を被った。北条泰家は、家臣の横溝八郎の奮戦によって一命を取り止め、鎌倉に逃走した。形勢が入れ替わった理由については、幕府軍が初日の勝利に奢って油断していたという説もあるが、足利高氏による六波羅探題攻略の報が関東に到達しており幕府軍増援部隊の寝返りがあったのではないかという説もある。
[編集] 影響
分倍河原の戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。幕府軍は鎌倉に籠もり7つの切り通しを固める。新田軍は要害の地鎌倉を攻めあぐんだが、稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。5月22日、鎌倉幕府は滅亡した。
[編集] 史跡
府中市分梅町の新田川分梅公園に分倍河原古戦場碑がある。分倍河原駅の駅前ロータリーには新田義貞の像がある。この像は鎌倉方面である南を向いている。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 1333年 | 日本の南北朝時代の戦い