円谷英二
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円谷 英二(つぶらや えいじ、本名:円谷 英一(つむらや えいいち)、1901年7月7日 - 1970年1月25日)は、福島県須賀川市生まれの特撮監督、映画監督。表記は圓谷英二で1949年の映画『幽靈列車』まで映画のクレジットで表記された。
昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残し特撮の神様と呼ばれる。又、一家は全員カトリック教徒で、墓地は東京都府中市の教会にある。
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[編集] 生涯
明治34年(1901年)7月7日誕生。戸籍上は、7月10日生まれとなっている。なお、当時は現在と違って、実際の誕生日と戸籍上の誕生日が違う人が、少なからずいた。
3歳の時に母を亡くし、父とも別れて祖母に育てられる。兄のように尊敬する5歳年上のおじの名が「一郎」だったので、遠慮して「英二」を名乗るようになったという。操縦士を夢見て飛行学校に入学するが、教官の死によって夢が破れる。その後電機学校(現・東京電機大学)を卒業する。
天然色活動写真株式会社の枝正義郎に出会い、映画界に入る。徴兵による兵役の後、衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画連盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。『稚児の剣法』(監督:犬塚稔、主演:林長二郎)でカメラマンとしてデビューする。
このころ、撮影映画は時代劇であったが、セットの奥行を出すために背景画を作ったり、ミニチュアセットを作るなど後の特撮技術に通じることを行なっている。その後、犬塚稔とともに日活に移籍。
アメリカ映画なども熱心に鑑賞し、映画『キングコング』を見たのもこの頃である。
技術的な問題で日活の幹部と対立、東宝の前身であるJOに移る。
1935年(昭和10年)2月~8月、連合艦隊の練習鑑「浅間」に乗艦、長編記録映画『赤道を越えて』を撮影。これが監督第1作となった。また、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスの指示で製作された『新しき土』では、スクリーンプロセスの技術を使用し、山岳映画の巨匠として知られたアーノルド・ファンク監督を唸らせた。
1937年(昭和12年)、JOが、別会社と合併して、東宝が設立された際、東宝東京撮影所の特殊技術課課長に異動し、東京に移る。
日本が戦争に突入すると、当時の統制もあって、戦争映画を中心とした国策映画を撮るようになる。『海軍爆撃隊』で初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影。『燃ゆる大空』、『南海の花束』など特撮が重要な役目を果たす映画を製作。特撮を用いなかったものとしては『皇道日本』などが知られる。
1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まった後は、1942年(昭和17年)製作の『ハワイ・マレー沖海戦』。『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』、『あの旗を撃て』などの戦意高揚映画で特殊な撮影法やミニチュアの使用や合成技術など、この時期に特撮技術を駆使した。しかし、戦争を奨励するかのような内容に苦悩する。
1947年(昭和22年)連合国軍最高司令官総司令部の公職追放によって戦意高揚映画を撮影したことから東宝を追放され、円谷特殊技術研究所を設立、大映などの映画の特撮部門を請け負った。
1952年(昭和27年)、日本独立後の公職追放解除で東宝に戻り『太平洋の鷲』を本多猪四郎監督とともに作りあげた。
1954年(昭和29年)11月3日、アメリカのSF映画を参考にした『ゴジラ』の公開により一躍脚光をあびた。その後は、『獣人雪男』、『大怪獣バラン』『モスラ』『キングコング対ゴジラ』などの娯楽怪獣映画の特撮技術を監督した。
1963年(昭和38年)、株式会社円谷特技プロダクションを設立、日活映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の部分を製作。その後は、TBSで『ウルトラQ』、『ウルトラマン』などを製作、「特撮の神様」とまで呼ばれるようになった。
子供にサインを求められると、自分の名前を図案化した「スキーボーヤ」を描き、大人には「子供に夢を」と書いた。
1970年(昭和45年)1月25日、狭心症により多くの人に惜しまれながらこの世を去った。
[編集] 考察:撮影的特撮と大道具的特撮
円谷英二は戦前・戦中から知られた撮影が専門で特殊撮影をはじめたのである。スクリーンプロセスを得意とし、『ウルトラQ』制作時にオプチカル・プリンターを購入し、『ゴジラ』第一作の企画段階でモデルアニメーション撮影を主張するなど撮影側からのアプローチが多いのはそのためだろう。ゴジラシリーズによって「特撮の円谷」の名を不動のものにした一方、『ゴジラ』シリーズが結局(当事の撮影所用語で)ぬいぐるみ(着ぐるみ)撮影のみになっていったため日本で特撮といえば大道具的なイメージが強くなってしまった。余談だが「特撮」という言葉を創ったのも円谷である、それまでは「トリック撮影」などと呼ばれていた。
ちなみに、東宝映画の“東宝マーク”を作ったのも円谷である。
[編集] 主な作品
[編集] 戦争映画
- 『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年、東宝) … 円谷英二が特撮の手腕を大きく振るった作品の一つ。政府の指示で、海戦の記録映像などを使うことは一切禁じられていた。が、円谷の演出能力はそれをものともしなかった。そのあまりの完成度の高さに,その戦闘シーンが記録映像をいっさい使わずミニチュアワークスと特撮のみで制作されていることを連合国軍最高司令官総司令部が信じなかったと言われる伝説的作品。円谷の公職追放の原因ともなってしまう。
- 『加藤隼戦闘隊』(1944年、東宝)
- 『太平洋の鷲』(1953年、東宝)
- 『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(1960年、東宝)
- 『太平洋奇跡の作戦 キスカ』(1965年、東宝)
- 『日本海大海戦』(1969年、東宝)
[編集] SF映画
[編集] 怪獣映画・テレビ
- 『ゴジラ』シリーズ … 第一作でのクレジットは「特殊技術 圓谷 英二」。以降は「特技監督 圓谷 英二」として『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』まで参加するが,次作の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』からは監修に回り,特技監督を有川貞昌にバトンタッチ。没後に制作された『ゴジラ対ヘドラ』以降、84年『ゴジラ』までの特技監督は中野昭慶に受け継がれた。(ただし,中野が特技監督の名義でクレジットされるのはゴジラ対メガロ以降)
- 『獣人雪男』
- 『ウルトラQ』『ウルトラマン』(監修) … 納期に関係なく厳しいチェックをしていたそうで,これが両作の高い完成度に貢献すると同時に、前者においては半年の放映期間の分を2年かけて事前に製作し、後者は最終的に制作が放映に間に合わなくなり打ち切りとなる原因ともなった。
- 『マイティジャック』『戦え!マイティジャック』(監修・演出・編集)
[編集] 演じた俳優
[編集] 家族
- 長男:円谷一(円谷プロ2代目社長、故人)
- 孫:円谷昌弘(円谷プロ5代目社長)
- 孫:円谷英明(円谷プロ6代目社長)
- 孫:円谷浩(俳優、故人)
- 孫:円谷一美(シンガーソングライター又紀仁美)
- 次男:円谷皐(円谷プロ3代目社長→初代会長、故人)
- 孫:円谷一夫(円谷プロ4代目社長→2代目会長)
- 三男:円谷粲(円谷プロ副社長・円谷映像社長)
- 孫:円谷優子(歌手)
[編集] 参考文献
- 竹内博・山本真吾 編『円谷英二の映像世界』(実業之日本社、2001年完全・増補版) ISBN 4408394742
- 円谷一 編著『円谷英二 日本映画界に残した遺産』(小学館、2001年復刻版) ISBN 4096814210
- 竹内博 編『写真集 特技監督円谷英二』(朝日ソノラマ、2001年増補改訂版) ISBN 4257036389
- 鈴木和幸『特撮の神様と呼ばれた男』(アートン、2001年) ISBN 4901006215
- 『円谷英二特撮世界』(勁文社、2001年) ISBN 4766938488
- 「素晴らしき円谷英二の世界」編集委員会 編・2001円谷英二生誕100年記念プロジェクト 監修『素晴らしき円谷英二の世界 君はウルトラマン、ゴジラにどこで会ったか』(中経出版、2001年) ISBN 4806114995
[編集] 円谷英二を題材とした作品
- 鈴木聡司『小説 円谷英二 天に向かって翔たけ』上、下(新風舎、2003年)