内田信也
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内田 信也(うちだ のぶや、本名のぶなり、1880年12月6日 - 1971年1月7日)は実業家、政治家。
[編集] 来歴・人物
茨城県生まれ。麻布中学校を経て、1905年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。
1905年三井物産入社、船舶部勤務を経て1914年同社を退社、一隻の汽船をチャーターし、神戸に内田汽船を設立し社長に就任。欧州大戦による船舶不足に乗じて内田汽船は急速に成長し、山下汽船の山下亀三郎・勝田汽船の勝田銀次郎とともに船成金と呼ばれ、列車の転覆事故にあった際に「おれは神戸の内田だ。金はいくらでも出す、助けてくれ。」と叫んだという話はいかにも成金らしいエピソードとして有名になった。(実際には『金はいくらでも出す』という部分は言っていないとの説もある。)
1924年立憲政友会衆議院議員となり、豊富な資金と才覚で政治家としても活躍する。岡田啓介海軍大臣のもとで海軍政務次官となり岡田と親交を結び、犬養穀内閣では三土忠造逓信大臣の逓信政務次官として船舶改善助成施設の成立に活躍、岡田啓介内閣のもとで鉄道大臣をつとめた。しかし、鈴木喜三郎総裁の反対を押し切って入閣したため高橋是清元総裁・床次竹二郎(第2次佐藤改造内閣で総理府総務長官を歴任した床次徳二の父)・山崎達之輔(山崎平八郎元国土庁長官の伯父)とともに政友会から除名された。
二・二六事件の直後には内大臣府秘書官長木戸幸一に株が下がってしまうからはやく新しい内閣を作ってほしいと頼み、木戸はこの非常時に株とは商人は言うことが違うと驚いたという。この時期岡田の他にも近衛文麿や宇垣一成らと深いつながりを持つようになった。宮城県知事の後、1944年2月19日に東条英機内閣の農商務大臣に就任。その後貴族院議員。
東条内閣の閣僚ではあったが、戦中はむしろ近衛文麿グループの一員として吉田茂ら早期終戦派と会合を行った。早期終戦のため宇垣一成の首相担ぎ出しも試みるが宇垣は近衛に不信感を持っていたため失敗した。
戦後は公職追放にあい、追放解除後の1952年に再び衆議院議員。第五次吉田茂内閣で農林大臣をつとめ、明治海運取締役会長等を歴任し海運界に重きをなした。1971年1月7日死去。享年90。
著書に『風雪五十年』。
文芸評論家の村上一郎や、大蔵事務次官や神戸銀行頭取を歴任した石野信一は甥。
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