全日空松山沖墜落事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
全日空松山沖墜落事故(ぜんにっくうまつやまおきついらくじこ)とは1966年(昭和41年)に発生した日本の国産旅客機YS-11による墜落死亡事故(航空事故)である。なお1966年には国内において旅客機の墜落事故が多発しており、この年5回目の事故であった。また全日空にとっても2回目の墜落事故となった。さらにこの事故について、当時の事故調査委員会は原因を特定することができなかった。
[編集] 事故の概要
1966年11月13日、全日空533便として運航されていたYS-11(JA8658)は、大阪・伊丹空港から松山空港へ陸側から着陸しようとした。当日は雲が低 く垂れ込めていた上に霧雨が降っており、あまり天候がよくなかった。しかも当日のダイヤが乱れていたことで松山空港の当時の門限である午後8時をすぎてしまい、滑走路の照明を再点灯するのを待つために少し遠回りしていた。午後8時28分になり着陸したが、滑走路1200mの半ば(滑走路端から460m地点)付近に接地してオーバーランの危険が生じたために、着陸をやりなおす着陸復行を行った。ところが、事故機の上昇は通常より鈍く高度230~330ftまで上昇した後、降下に転じ、左旋回の姿勢のまま、松山空港沖2.2Kmの伊予灘(瀬戸内海)に墜落した。この事故で、運航乗務員2名、客室乗務員3名、乗客45名の計50名全員が犠牲になった。
余談ではあるが、1ヵ月後には遺体捜索をしていた全日空と大阪府警のヘリコプターが伊予灘上空で空中衝突し、双方の操縦士4名も犠牲になった。
[編集] 事故原因
当時は旅客機にボイスレコーダーとフライトレコーダーを搭載していなかったこともあり、事故調査委員会は墜落原因を特定することができなかった。調査報告書は、速度計の誤読あるいは故障等の推測原因を検討したうえで、パイロットミスをほのめかせている。当初、松山便ではフレンドシップを使用する予定だったが、機体のやりくりがつかず予約客が多かったために大型のYS-11へ機体が変更されていた。その結果、事故機の機長は急遽予定にはなかった飛行をこなしたために過労気味であったとされている。
ただし現在では、当時の滑走路面付近は弱い北風が、そして空港上空は20ノット前後の南風が存在した可能性が強く、低層ウィンドシアーに巻き込まれて墜落したか、もしくは事故機のエンジンの一つが停止もしくはプロペラが破損脱落したために、上昇姿勢が維持できなくなり墜落したとの仮説がささやかれている。これについて、収容されたキャビンアテンダントの1人の遺体がガムを飲み込んでいた、つまりこれが何らかの異常が発生したことをうかがわせる証拠ではないかとの指摘がある。
[編集] 事故の影響
事故の発生した昭和40年前後には、関西圏の新婚旅行先として松山の道後温泉が選ばれることが多く、また当日は日曜日で大安吉日でもあり、新婚旅行に向かうカップルが12組(24名)と犠牲者の半数近くにのぼっていた。そのため世間に深い衝撃を与えた。そのうえいずれのカップルも婚姻届の提出を済ませておらず法的には夫婦ではなかったため、航空会社と遺族との損害賠償交渉が混乱した。これを受けて法務省は、婚姻届を早期に提出するように励行する広報を出した。また犠牲者の中には海流に流されて遺体が発見されなかった者が少なくなかったため、付近の海域で取れた海産物に風評被害が生じて一時期売れ行きが悪かったという。
また、滑走路が仮に2000m程度あればそもそも着陸復行する必要がなく事故も起きなかった。そのため、事故を契機に松山空港を始めとする地方空港の滑走路の拡張工事が進められることになった。松山空港も滑走路が現在では2500mまで延長されているが、この事故対策が地方空港のジェット化に思わぬ貢献を果たすことになった。