倉本昌弘
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倉本 昌弘(くらもと まさひろ、1955年9月9日 - )は、広島県広島市三篠町(現・西区三篠町)出身のプロゴルファー。日本大学卒業。身長164㎝、体重66kg。「AON」とともに、1980年代のゴルフブームを興した名選手である。
生家は地元広島の老舗の有名料亭。祖父は生け花の師範という恵まれた環境に育った。しかし虚弱体質で学校もよく休み、多くの病院を回ったり、治療のため東京まで行って入院したりするような子供だった。ゴルフを始めたのは10歳・小学校5年の時、父がゴルフに行きたいがためのダシに使われた。日本のプロゴルファー第1号、福井覚治の子・福井康雄が広島に移り、ゴルフレッスンを始めた事を機に師事した。しかし一番ゴルフを教えてくれたのは、叔父(倉本泰信の父)と言う。両親とも店の仕事が忙しく学校だけは、市内中心部に通い、郊外に住む祖父夫婦に育てられた。このため我儘放題で、さらに練習は名門・広島カンツリー倶楽部に所属したため、子供の時に友達と遊んだ記憶は一つも無いと言う。このため暇つぶしで練習場に通い、福井のレッスンも暇な時、大人のレッスンの合間にしてくれるもので、一度も練習を強制された事は無く、楽しんでゴルフを続けた。これが続けられた理由ではと述べる。初めて憧れたゴルファーは史上最強のアマチュアゴルファー・中部銀次郎。崇徳高等学校時代には、全日本ジュニアチャンピオンになるなど「広島に倉本あり」と大いに名を馳せた。また小柄な体にパワーを付けるため、高校時代から筋力トレーニングを取り入れていた。ダンベルなど器具を使った筋トレは、アメリカへキャンプやトレーニングに行った一部の野球選手が、1960年代から少しづつ始めたものと言われている。一般的に広まったのは、1976年に創刊された「POPEYE(ポパイ)」の筋トレ特集や、チーム全体で導入したと言われる1970年代後半の広岡ヤクルト、1980年代初めの高校野球・池田高校の活躍辺りからである。1970年代中頃からシステマティックに練習に取り入れていたと言う倉本は、ゴルファーのみならず、最初に筋トレを導入したアスリートの一人と思われる。
1974年日本大学に入学すると、小柄ながらずば抜けた飛距離で、史上初の「日本学生4連覇」(4年連続優勝)を成し遂げた。その他、日本アマ3勝、関東アマ2勝など、アマチュアタイトルを総なめにしトップアマとして君臨した。しかし1978年、この頃日本とアメリカを往復していた倉本は知人に騙され大麻を所持。公式戦出場停止となり広島CCを追われ、他のゴルフ場からも締め出された。一時実家の料亭を継ぎ、何とか高知県土佐カンツリー倶楽部に身を寄せるという、初めての大きな挫折を味わった。1980年にはアマチュアで参加した「中四国オープン」で史上唯一のツアー競技アマチュア優勝、鮮やかなカムバックを果たす。しかし同年行われたプロゴルファーテストに1打足りず不合格、またも挫折を味わう。トップアマでプロにも勝ったにも関わらずプロになれない、という矛盾はのち自らが改革して改める。
翌1981年、プロテストに合格。7月プロ転向デビュー戦、後援競技『和歌山オープン』でいきなり優勝すると、デビューから4戦で3勝(2位1回)し、センセーショナルを巻き起こした。この年計6勝、新人としては史上最高の賞金ランク2位となった。飛ばし屋として知られ「ポパイ」とあだ名を付けられた。青木功、尾崎将司、中島常幸の「AON」に若手の倉本が絡んだことでツアーは大いに盛り上がり、ゴルフブームを興した。また同じ学士プロの湯原信光、羽川豊は“ニューウェーブ三羽烏”として注目を集めた。1982年には「全英オープン」で日本人選手の過去最高位・4位タイの偉業を果たす。1992年には通算25勝目をあげ、日本男子プロゴルフ史上5人目、大学出身唯一の永久シードを獲得した。生涯獲得賞金は、9億8981万8584円(2006年3月現在)で5位と青木功を凌ぐ。
この後は役職の激務からかスランプに陥った。2000年には心臓弁膜症の手術を受けるなど苦難のシーズンが続いたが、2003年アコムインターナショナル初日に、日本ツアー史上初の最少スコア、世界タイ(アニカ・ソレンスタムら過去4人)となる59ストロークという偉業を最年長48歳で達成し30勝目を上げた。「三歩、三秒で打つ」と自著で述べているように、早く打つことで有名。人間のリズムは三歩から始まり、イメージが持続するのは三秒まで、と自身の考えに基づくものとという。
若い時から人望があり、JPGA(日本プロゴルフ協会)の選手会長を務めるなど多くの要職に就いた。早くから米ツアーに挑戦した経験から、米ツアーの組織力、トーナメント運営力などを学び、選手会とのねじれが有ったJPGAの組織と制度の改革を断行し、1997年に「ツアー・オブ・ジャパン」を発足させ、1999年にはPGAと完全分離した「JGTO(日本ゴルフツアー機構)」を立ち上げた。プロ野球界における古田敦也以上の改革をゴルフ界で成し遂げた人物でもある。なおあだ名は一頃から「マッシー」と呼ばれている。
宮里藍らの台頭で隆盛となっている女子に比べ、元気の無い男子ツアーに対しては、「日本女子プロゴルフ協会の広報面での努力もあるが、若手が出てきたということは、裏を返せばプロのレベルが低いということ。逆に男子はレベルが上がり、若手やアマが勝てる状態ではない。むしろゴルフとはこういうもの、と理解してもらった方がいい」と述べる。また自身、男子ゴルフに初めてチタンヘッドを持ち込んだ選手としても知られるが、用具の問題には危惧する。「今の男子ツアーは野球で言えば、両翼150メートルの球場にしたのに年間60本塁打の打者がたくさんいる状態。アマは別にして、プロの用具規制は必要」と訴える。
2005年11月、「チャンピオンズ・ツアー」(米シニア・ツアー)の最終予選会に参加。世界各国から350人の参加中、トップ合格を果たし賞金4万5000ドルを獲得、JPGA副会長職などの要職は辞して、2006年からチャンピオンズ・ツアーに本格参戦する。米シニア・ツアーの賞金総額は、日本の男子レギュラーツアーの約2倍の60億円で人気も高い。チャンピオンズ・ツアーでは「マッシー・クラモト」(Massy Kuramoto)の名前で登録されている。
[編集] 逸話
- 当時賞金は今のように銀行振込みではなく最終日に会場で手渡しされた。デビュー3勝目の日本国土サマーズを優勝した時、マスコミの要望に応じて、帯封された計810枚の1万円札をテーブルの上に並べて記念撮影した。
- 賞金が入ったので広島の一等地・上八丁堀にマンションを購入した。ツアーの続く職業柄、ここへ住んだことはあまり無いと思われるが、住民票をずっとここへ置いていたため、全盛期には毎年広島市中区の長者番付で上位に顔を出していた。累計では数億、広島市に納税している筈である。地元にも充分な貢献をした。
- 今は珍しくないが、当時は少なかった大卒出身選手だった為、先輩プロから「クラブを跨いだだろ」とか、「グリーン上のマーク位置を前に出したろ」であるとか、かなりの嫌がらせがあったことを自著の中で述べている。こうしたことに負けることなく、言葉と行動で跳ね返してきたことで、選手会長にさせられたのではと言う。
- 「女に生まれてきたらメジャー大会でも勝てるのに」と女性蔑視とも取れる発言をした。
[編集] 著書・参考文献
- 三秒で打つ、PHP研究所
- ワラをもつかむゴルフレッスン、双葉社
- ポパイ流 飛ばすゴルフ 俺だけのやり方、ベストセラーズ
- サンドピッチング ウェッジ自由自在、ごま書房
- ポパイ倉本昌弘のダイナミックゴルフ、講談社
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 日本ゴルフツアーのプロフィール
- アメリカ・チャンピオンズツアーのプロフィール (英語、“Massy Kuramoto”の名前で掲載)