佐々木高綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐々木高綱(ささきたかつな、1160年(永暦元年) - 1214年12月8日(建保2年11月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。平家物語や源平盛衰記にその活躍が描かれ、歌舞伎の鎌倉三代記にも登場する、非常に人気のある武士である。「佐々木四郎」と呼ぶ場合もある。
近江国の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の四男として生まれ、京に住んでいたとされる。
1180年(治承4年)に源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、兄弟の定綱、経高、盛綱と共にそれに加わって、本領の佐々木庄を安堵される。宇治川の戦いでは、頼朝に与えられた名馬「生月」にまたがって梶原景季と先陣を争い、初めは遅れをとるが、景季に馬の腹帯が緩んでいるので締め直す様に薦めて行わせ、その間に先陣を切る。
1186年(文治3年)に長門、備前の守護へと任ぜられる。1195年(建久6年)に家督を子の重綱に譲り出家し、心瀧と称し諸国を巡回したと伝えられ、各地には高綱を由緒とする寺社や宝物が多く残る。
その後、1214年(建保2年)に信濃松本で亡くなったといわれる。現在、松本市島立にある浄土真宗の寺院である大宝山専修院正行寺は了智上人となった高綱が建立したと伝えられており、高綱の物とされる墓がある。また地元民は高綱の名にちなみ、この一帯を高綱原と呼んでおり、高綱中学校という学校も存在する。明治の軍人、乃木希典陸軍大将は高綱の末裔とされる。
カテゴリ: 武士 | 1160年生 | 1214年没 | 人名関連のスタブ項目