伊達宗勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊達 宗勝(だて むねかつ、1621年(元和7年) - 1679年12月6日(延宝7年11月4日))は、江戸時代前期の大名。一関藩の初代藩主で、仙台藩初代藩主・伊達政宗の十男(九男、十一男とも言われている)で、第2代藩主・伊達忠宗の異母弟。母は和賀一族の毒沢伊賀の娘。幼名は千勝丸。官位は従五位下、兵部大輔であったことから、伊達兵部と呼ばれた。
[編集] 経歴
異母兄・忠宗が存命中は特に目立った行動はなかったが、1658年に忠宗が死去してその子・伊達綱宗が後を継ぐと、藩祖・政宗の息子であるという自負と綱宗が吉原の遊女高尾に入れあげるなど乱行が目立ち、暗愚であるということから綱宗の庶兄田村右京太夫とともに藩政を見た。嫡子宗興の正室に酒井忠清の養女を迎えるなど幕府との繋がりも強く、1660年には3万石の分知を受けて大名となった。同年、綱宗が幕命によって隠居を余儀なくされ、その後をわずか2歳の長男・伊達綱村が継ぐと、宗勝はその後見人となって、仙台藩を専横するようになった。1666年には幼少の綱村を毒殺(毒見役が身代わりに毒を食らって未遂に終わった)して自らが藩主になろうとまで画策したほどである。
[編集] 伊達騒動
このような中での1671年、伊達騒動(寛文事件)が起こり、仙台藩は改易の危機に立たされた。これは当時、第4代将軍・徳川家綱のもとで大老として権勢を誇っていた酒井忠清と宗勝が密約を結んで、仙台藩を事実上乗っ取るつもりだったとも言われているが、幕府の裁定によって藩主・綱村は若年であるということでお咎め無しのうえ、仙台藩は安泰とされた。しかし宗勝は騒動の首謀者として土佐国に流罪とされ、一関藩も改易となった。また、嫡男の伊達宗興は小倉に流罪、宗興の正室と子供たちは兵部がかつて分知実現のために奔走した縁故のある伊予吉田藩が願い出て預かった。庶子である伊達虎之助、伊達兵蔵は連座しなかったようである。
配所では小高坂村に広大な新築の屋敷を賜り(警備は厳重であったものの)500人扶持を与えられて暮らし向きは悪くなく、1679年、土佐で59歳の生涯を閉じた。葬られた墓石も立派なものであるといい、通説通りの悪党であったかどうかは再検討の余地があろう。
[編集] 系譜
なお、陸奥宗光は伊達宗勝の子孫と言われている。
- 伊達氏(一関藩)藩主
- 1660~1671
-
- 先代:
- -
- 次代:
- 田村建顕