伊豆健児
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伊豆 健児(いず けんじ、1923年 - 1993年3月15日)は、ヤクザ、指定暴力団・五代目山口組顧問、伊豆組初代組長。
[編集] 山口組直参昇格まで
1923年、福岡県のクリスチャンの家庭に生まれた。 太平洋戦争が始まった1941年、13歳で海軍の少年兵(少年軍属)に志願し、1944年になると戦況悪化のため外地から帰還した。
戦後になると暫く博多の東中洲で愚連隊として行動しており梅津会初代梅津高則の舎弟となる。その後、1954年頃、別府市の石井一郎(後の石井組組長)と知り合い兄弟分となった。 1958年に石井が三代目山口組組長・田岡一雄と盃を交わし山口組直参となると、伊豆も続く1961年に山口組直参となった。
しかし山口組直参となったことで、九州地元勢力と緊張状態に陥ることとなった。
[編集] 山口組直参昇格以降
山口組直参昇格直後には、夜桜銀次事件で山口組の先兵として九州地元勢力と武装対峙し、五分の手打ちに至った。 こうして夜桜銀次事件でその勢力を見せ付けて以降、山口組の九州・博多での砦として勢力を急速に拡大させて行った。
1982年に田岡一雄が病死すると後継争いでは竹中正久を支援し、1984年の四代目体制発足に貢献した。 その貢献と、それに先立って石井一郎が1973年4月に亡くなっていたため、四代目体制下では九州で山口組最古参として舎弟頭補佐の要職に就いた。
その後も1985年には山一抗争の渦中にあって久留米の道仁会と山道抗争を起こし死傷者を出すなど激しい戦闘を行った。
生涯武闘派として名を売ったが、素顔は気さくで元来争いごとは好きではなかったと言われている。渡辺芳則組長の山口組五代目体制では顧問を務めていたが、肝臓病を患い、1993年に心不全により亡くなった。
- 伊豆組組長
- 初代: 19**-1993
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- 先代:
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- 次代:
- 青山千尋