人取橋の戦い
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人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)は、 天正13年11月17日(1585年1月6日)に蘆名氏・佐竹氏の連合軍を伊達政宗が押しとどめた戦い。
奥州探題を自任し、その職の実効範囲を拡大しようとする伊達政宗に対し、南奥に勢力圏を確保していた佐竹義重が伊達勢に二本松城を攻撃されていた畠山氏救出の名目で蘆名・石川・二階堂・白河結城・相馬・岩城などの諸氏を糾合して挑んだ戦いが人取橋の戦いである。伊達軍約8千に対して、佐竹・蘆名連合軍は約2万5千であり、伊達軍は終始苦戦していたが、主戦の佐竹氏の突然の撤退という形で終息した。この戦以降、佐竹氏は後北条氏の下野進出などの関東情勢の変化のために伊達氏に対する積極的軍事行動をとれなくなる。伊達氏は従前のように南下路線を継続し、南奥の検断実行にひとまずは成功する。
合戦が行われた福島県安達郡本宮町には古戦場跡碑と戦死した伊達氏家臣・鬼庭良直の墓が残る。
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