京の花街
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京の花街(きょうのはなまち/かがい)
京都には6つの花街があり、それぞれの個性によって構成されている。しかし、花街としての機能を果たしているのは嶋原を除いて5ヶ所でそれをまとめて『五花街』(ごかがい)と呼ばれている。
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[編集] 六花街
[編集] 上七軒
京都最古の花街で京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する。 室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極める。毎年春になると『北野をどり』が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露している。
[編集] 祇園甲部
京都で最大の花街で日本国内のみならず海外でも知られている。江戸時代初期に八坂神社の門前で水茶屋を営業したのが始まりで以後、花街として発展し正式に許可された。このときに団子をモチーフにした紋章が作られ、現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。明治5年、東京奠都で寂れかけた京都を立て直そうと槇村正直が博覧会の余興として都をどりが上演された。振り付けの担当が三世井上八千代(本名 片山春子)が務めた。以後、祇園の舞は井上流一筋となる。祇園は多くの歌人や政治家等の著名人たちによって愛された。
[編集] 祇園東
京都市東山区、四条花見小路上る東側に位置する花街。明治に入り祇園甲部から分離独立し、甲部に対し『祇園乙部』と称された。乙部は主に娼妓数が多かった。
[編集] 嶋原
京都市下京区に位置する花街。正式名称は西新屋敷で6つの町(上ノ町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。嶋原の歴史は古く、日本で最初の公許された花街であり室町時代に「九条の里」という傾城局が設置されたのが始まりだといわれる。桃山時代に二条万里小路に花街が豊臣秀吉によって移されたといい、江戸時代になると六条付近にうつされ、「六条三筋町」と称され吉野太夫等の名妓が輩出した。
[編集] 先斗町
京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街。もともとは鴨川の州で、江戸時代初期に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。江戸初期、鴨川の周辺を開発しそこに茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりですでに芸妓、娼妓が居住するようになり何度も取り締れていたが川端二条にあった『二条新地』(にじょうしんち)の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立をした
[編集] 宮川町
京都市東山区に位置しており、宮川筋二丁目から六丁目までが花街。出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていたので「陰間」と呼ばれていた花街だった。その後形態が変わり宝暦年間、正式に認可された。明治、大正、昭和33年3月15日の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。
[編集] 花街のをどり
- 都をどり 4月1日 ― 30日にかけて祗園甲部歌舞練場で開催される祗園甲部の舞踊公演。
- 鴨川をどり 5月1日から24日にかけて先斗町歌舞練場で上演され、京の花街の中で最も上演回数が多い。
- 京おどり 4月初旬から下旬にかけて宮川町歌舞練場で上演する。
- 北野をどり 4月15日から25日にかけて上七軒歌舞練場で上演する。
- 祇園をどり 11月1日から10日まで祇園会館で行われ、唯一秋に上演される花街の公演
[編集] かつて存在していた花街(遊廓)
[編集] 京都市内
[編集] 明治~大正期
- 清水新地 1873年(明治6年)、消滅
- 辰巳新地 1873年(明治6年)、消滅
- 白梅図子 1874年(明治7年)、消滅
- 三本木 1876年(明治9年)、消滅
- 壬生 1880年(明治13年)、消滅
- 下河原 1886年(明治19年)、祇園甲部に合併。
- 二条新地 1887年(明治20年)、廃止
- 墨染 1911年(明治44年?)、消滅
- 五条橋下 1912年(大正初期?)~、七条新地に合併。
[編集] 売春防止法施行まで営業
[編集] 売春防止法以後
- 中書島 1970年(昭和45年)、廃止。
[編集] 京都府内
- 新浜(宮津市)
- 朝代(舞鶴市)
- 加津良(同上)
- 竜宮(同上)
- 橋本(八幡市)
- 月見町(綾部市)
- 猪崎(福知山市)