井口基成
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井口 基成(いぐち もとなり, 1908年5月17日 - 1983年9月29日)は日本のピアニスト・ピアノ教育家。妹の佐藤愛子と、秋子夫人もピアニスト・ピアノ教育家という音楽一族。 東京都出身。
[編集] 略歴
- 高折宮次、レオニード・コハンスキに師事して東京音楽学校を卒業後フランスに留学、イヴ・ナットのもとで研鑽を重ねた。
- 1934年、帰国後初のリサイタルを日比谷公会堂で行い、その後活発な演奏活動を展開。一方で東京音楽学校教授、桐朋学園短期大学初代校長をつとめるなど教育面でも重要な貢献を果たした。
- 1942年、日本芸術院賞洋楽部門で、第1回目の受賞者に選ばれた。
- 1948年、伊藤武雄、斎藤秀雄、吉田秀和と「子供のための音楽教室」を開設。一期生には小澤征爾(指揮者)、中村紘子(ピアニスト)、堤剛(チェリスト、現:桐朋学園大学学長)らがいる。「子供のための音楽教室」は、後の桐朋学園音楽部門の母体となった。
- 1949年、毎日音楽賞受賞。
- 1963年、毎日出版文化賞受賞。
- 1965年、日本演奏家連盟を設立。
- 1983年5月17日、東京で死去、享年75。
著書に「わがピアノ、わが人生」、またピアノ改訂楽譜を多数残している。
[編集] エピソード
- 戦後、戦争協力を疑われたが、多数の弟子への出張レッスンを高齢になるまで続けるなどの、地道な努力で名声を取り戻した。めったに言及されないが、戦後のいくつかの国際コンクールで審査員を務め、多くの日本のピアニストを支援していた。シマノフスキやスクリャービンの日本への受容も、もしも彼が日本初演を行わなければ定着することはなかった可能性も否めない。
- しかし、演奏はひどいもので、音が大きいばかりで聴くに耐えなかったという。あまりにも激しく鍵盤を叩くため、ピアノの弦が切れることはしょっちゅうで、演奏中椅子から床にずりおちた、というエピソードが有名(信憑性は薄いが、ピアノの脚や、はたまた椅子の脚まで折れてしまった、などというエピソードもある。そういう話が出てくるほどの熱演ぶりだったことは確かだろう。)。教育者としては国内では有名なのにもかかわらずほとんどレコードやCD化されていないのはそのためである。
- まだ若かりし頃のフジ子・ヘミングの演奏を批判し、そのせいで国内でフジ子の人気が定着しなかったとも言われている。
[編集] 井口基成に師事したピアニスト
- 有森亜子
- 太田由美子
- 賀來満智子
- 黒河好子
- 小林仁
- 小林倫子
- 崎川晶子
- 柴田翠
- 関晴子
- 田隅靖子
- 田中希代子
- 田中正史
- 西村路子
- 野沢真弓
- 長谷川美穂子
- 羽田健太郎
- 林秀光
- 林由香子
- 弘中孝
- 藤澤篤子
- 松井啓子
- 松枝淳一
- 松岡三恵
- 宮下恵美
- 山内妃沙子
他多数。