二条良基
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二条 良基(にじょう よしもと、元応2年(1320年) - 嘉慶2年6月13日(1388年7月16日))は、南北朝時代の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。
目次 |
[編集] 家系
父は二条道平、母(北政所)は西園寺公顕の娘婉子。兄弟姉妹に後醍醐天皇女御の栄子、富小路道直、二条師基(南朝関白)。妻は土岐頼康の娘。子に二条師良、二条師嗣、道意、満意、一条経嗣(一条兼良の父)。猶子に四辻善成、今小路基冬(満済の父)がいる。
[編集] 生涯
8歳で元服して正四位下侍従となり、わずか2年で従三位権中納言に昇進する。鎌倉幕府滅亡後に京都で建武の新政を開始した後醍醐天皇に仕える。1336年に後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝(吉野朝廷)を成立させる。叔父の師基は南朝に参じ、良基もまた天皇を深く敬愛していたにもかかわらず、京都にとどまり、北朝の光明天皇のもとで権大納言となった。足利将軍家が擁する北朝の公卿として朝儀・公事の復興に努め、1346年には光明天皇の関白・藤氏長者となる。
やがて足利氏の内部抗争から観応の擾乱が起こり、1351年に足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、北朝天皇や年号が廃止され、良基も関白職を停止される。翌1352年に和睦が決裂すると、足利将軍家の意向と勧修寺経顕の説得を受けて復職し北朝の再建に尽力する。光厳上皇・崇光天皇らは南朝に拉致されていたため、光厳上皇の母広義門院の命によって、新たに崇光の弟弥仁王後光厳天皇を擁立する。だが、朝廷では三種の神器のない天皇の即位に対して異論が噴出した。その際、良基は「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)。その翌年には、南朝側の反撃によって足利義詮が天皇を連れて美濃国に退去する緊急事態が起きると、病身を押して同行するなど、北朝のために挺身した(この行幸の際に書かれた仮名日記が『小島のすさみ』である)。だが、京都を占領した南朝軍は二条邸に遺された摂関家ゆかりの文書・家宝などをことごとく没収したと言われている。その後1358年に関白を九条経教に譲ったものの、1363年から4年間再度関白を務めている。
有職故実にも深く通じており、1366年に年中行事歌合を主催して、朝廷儀礼や王朝古典の研究を進めた。そして室町幕府の三代将軍となる足利義満に宮中の故実作法や文化教養を教授する。1376年に准三宮、81年には太政大臣となり、1382年には後小松天皇の摂政を勤めた。1387年に近衛兼嗣に摂政を譲るが、翌年に兼嗣が急死する。そこで良基が再度摂政に復帰するが、病が重くなり息子・師嗣を後任の摂政に据えた直後に69歳で死去した。
文化的活動として和歌や連歌、蹴鞠などに通じ、わけても連歌の大成者として知られる。1356年には救済とともに『菟玖波集』20巻を撰したほか、『筑波問答』『九州問答』『十問最秘抄』どの連歌論書を著し、1372年には連歌式目として応安新式を制定する。歌論書として『近来風躰』、『愚問賢注』(頓阿との問答)。仮名文の執筆にも長じて『小島のすさみ』『衣かづきの日記』『さかき葉の日記』『雲井の花』『永和大嘗会記』『雲井の御法』などの宮廷行事の記録を著す。『増鏡』の作者とする説もある。また、勅撰和歌集である『新後拾遺和歌集』仮名序も良基の作である。また、当時社会的評価が低かった猿楽能に理解を示して、少年時代の世阿弥に対して保護を加えたことも知られている。
その一方で足利尊氏・義満に深く接してその後ろ盾を得て、4度にわたって摂政・関白の座に就くなど、権力や名誉に対しては飽くなき野心家として見られることも多く、対立する南朝側のみならず北朝側の人々の中にも嫌悪感を持った人は少なくなかったといわれている。
[編集] 官職位階履歴
- ※日付=旧暦
- 8月9日、元服し、禁色を許され、正五位下に叙位。 8月14日、侍従に任官。
- 9月21日、左近衛少将に転任。 9月22日、従四位下に昇叙し、左近衛少将如元。 9月28日、左近衛中将に転任。
- 嘉暦3年(1328年)
- 1月5日、従四位上に昇叙し、左近衛中将如元。
- 3月16日、従三位に昇叙し、左近衛中将如元。
- 嘉暦4年(1329年)
- 6月28日、権中納言に転任し、左近衛中将如元。
- 1月5日、正三位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。
- 4月15日、権中納言を辞任。
- 元弘3年(1333年)
- 5月17日、権中納言に還任。
- 6月12日、従二位に昇叙し、権中納言如元。
- 3月2日、権大納言に転任。
- 建武4年(1337年)
- 8月8日、正二位に昇叙し、権大納言如元。
- 10月19日、左近衛大将を兼任。
- 暦応3年(1340年)
- 7月19日、内大臣に任。 7月24日、左近衛大将如元。
- 暦応5年(1342年)
- 3月30日、東宮(興仁親王、のちの崇光天皇)傅を兼。
- 12月21日、左近衛大将を辞。
- 4月10日、右大臣に転、東宮傅如元。
- 2月29日、関白宣下、内覧宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。右大臣・東宮傅如元。
- 貞和3年(1347年)
- 1月5日、従一位に昇叙し、関白・内覧・藤原氏長者・一座・右大臣・東宮傅如元。
- 9月16日、左大臣に転任。
- 貞和4年(1348年)
- 10月26日、東宮傅を辞任。
- 貞和5年(1349年)
- 9月13日、左大臣を辞任。
- 12月29日、関白を辞、内覧宣下。
- 6月27日、関白宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。内覧如元。
- 貞治6年(1367年)
- 8月27日、関白を辞すも内覧宣下。
- 元日、准三宮宣下。
- 7月23日、任太政大臣
- 永徳2年(1382年)
- 4月11日、摂政宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。准三宮・内覧・太政大臣如元。
- 永徳3年(1383年)
- 10月20日、内舎人随身を賜る
- 1月8日、太政大臣を辞任。
- 2月7日、摂政を辞す。内覧宣下。
- 4月8日、摂政宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。
- 6月13日、薨去。享年69 号:後普光園院摂政太政大臣。
[編集] 参考文献
[編集] 綜合研究
- 木藤才蔵『二条良基の研究』(桜楓社、1987年) ISBN 4273021773
- 小川剛生『二条良基研究』(笠間書院、2005年) ISBN 4305103621
[編集] 文学・歌論
- 伊藤 敬『新北朝の人と文学』(三弥井書店、1979年)
- 小川剛生『南北朝の宮廷誌 二条良基の仮名日記』(臨川書店、2003年) ISBN 4653037264
- 伊藤伸江『中世和歌連歌の研究』(笠間書院、2002年) ISBN 4305702363
- 伊藤 敬『室町時代和歌史論』(新典社、2006年) ISBN 4787941755