久世重之
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久世重之(くぜ しげゆき、万治2年(1659年) - 享保5年6月27日(1720年8月1日))は、江戸時代の大名、徳川幕府閣僚。官位は従四位下。官名は、はじめ讃岐守のち大和守。
下総国関宿藩主・久世広之の3男、重之の死後は家督は4男の久世暉之が継ぐ。
重之一代のときに関宿藩から備中国庭瀬ついで丹波国亀山さらに三河国吉田へとめまぐるしく転封をつづけ、1705年再び関宿に復帰する。
幕府では35歳のときに寺社奉行に起用されたのを皮切りに、若年寄、ついで、元禄12年(1713年) - 宝永4年(1720年)、老中を務める。また、新井白石の学問の崇拝者として知られ、閣内に味方の少ない正徳の治を側面から支持し、正徳金銀鋳造の責任者を担当している。
[編集] 経歴
- 1649年(万治2) 生誕
- 1679年(延宝7) 関宿藩主就任
- 1683年(天和3) 庭瀬藩に転封
- 1686年(貞享3) 丹波亀山藩に転封
- 1697年(元禄10) 三河吉田藩に転封
- 1704年(宝永元) 寺社奉行
- 1705年(宝永2) 若年寄。関宿藩に再封
- 1713年(正徳3) 老中
- 1720年(享保5) 在職中死去。享年61。
墓所は、本妙寺(豊島区)。